監査役BLOG

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価値観

[価値観]

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快楽と感動

 再びフランクルの言葉です。 『人間の幸福はどれだけ快楽を得たかではなく、どれだけ感動を得たかによって決まる』がテーマです。

介護事業を営んでいると同業の経営者にお会いする機会が多くあります。 人の性格の安全・安心に関わる仕事で、ご自身の考える福祉ありきで事業を営んでいる人がいます。 基本にあるのは他人への思いやり、しかしその考えで事業を営んでも利益を確保することが難しい場合が多くあります。

そもそも国が作った制度で税金を使った事業ですから規制だらけ、その規制に沿う必要があります。 事業主がここまで必要と思っても制度上認められないことが多く、また個人感覚としての福祉の手厚さの程度は大きな幅をもちます。 制度規制の幅を超えた福祉の考え方の良否はさておきそれが制度ビジネスです。

ならば制度内で一番利益を生む部分を事業として展開する考え方があります。 利益獲得を中心に据えて事業を営まれます。 この考えの大抵の方は事業が上手く行き、所得が増えると高い車、趣味、高額の住居などにお金を使います。 いわゆるお金持ちの生活を満喫されます。 善悪の問題ではなく価値観の問題で、税金を使う仕事をしていてベンツに乗るか、等と言う批判は全くする気がありません。

このお金持ちの生活は快楽多き人生になり、お金で買える感動も多くなります。 一方においてストイックな人生を送る場合を考えてみましょう。

私はお金を儲ける=商売をうまくする=ビジネスモデルを考える事か好きで、苦労して利益が稼げた時に大きな喜び≓感動を得ます。 それが喜びで事業に携わっています。 快楽にはまり感動を忘れるのが怖くて所得をぎりぎりにしています。 本当に質素な生活で事業の感動を糧に幸せな人生を送れるか試しています。 そして今のところ経営の仕事はうまくいっており、仕事主体の人生が幸せに思えています。

 

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[価値観]

奇跡を求める人は祈り、成果を求める人は働く

表題はローマ帝国自体のアウグスチヌスの言葉です。 私自身は無宗教、とはいっても実家は浄土真宗ですが祈りとはほぼ無縁の人間です。

人が祈りを捧げるのは過去に取り返しのつかないことをした時、将来に向けて乗り越えられない困難に直面したとき、つまり絶望したときに祈りは捧げられると思います。 少しうまくいかなかったとき、宝くじを買ったときに祈りを捧げる人もいますが、心からの祈りは絶望したときでしょう。

無宗教の私としては絶望したときを振り返るとすさんだ状態で時間が経過していました。 祈りを捧げる対象があるのは絶望の痛みを軽くしてくれるのでしょう。

程度の差があれ努力が報いられると思えるのは希望があること、絶望状態ではありません。 困難だが一縷の希望を見出して努力し、状況が見えてきて絶望するのは小説やドラマでよくつかわれるパニックで、現実にも多くあります。

希望は努力が成果を見込めるからで、そもそも成果の見込めないことを希望しても意味は無く、出来る限り情報を集め、努力し、成果の見込めるであろう一番の高みを目指していきます。 そして達成できれば大きな達成感が得られます。 その瞬間も祈りを捧げることなく努力を続けられる人はきっと偉大な人だと思います。

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[会社運営]

[価値観]

退職

当社は比較的変化の大きい会社です。 約20年で社員は17倍になりました。 10人から170人、160人増は年間8人の増加で達成できます。 しかし退職する人もいてこの20年で170人が退職しています。

当社の採用面接で履歴書を拝見すると職歴の多さにびっくりすることが多くあります。 60歳を超えた方を中心に採用しているモニタリング職では履歴書の職歴欄は1社のみという方が多いです。 そしてほとんどの方が退職せずに定年を超えて働いておられます。

30歳代の人は新卒時に就職氷河期で転職を繰り返したと思われる職歴欄になっています。

私も転職を一回していて転職してよかったと思っています。 しかし私個人の考えで一般論として転職の良し悪しを評価はできません。 会社の風土や仕事内容等合う、会わないがあるので合わない職場で無理やり仕事を続ける意味はないと思いますが、そもそも何なら合うのか、これが改善されれば、このような手ごたえや達成感が欲しいとか解かっていない人が転職者に多いのも事実でしょう。

どのような仕事でも成果が生まれれば達成感は感じられますし、やりがいにもつながるのではと思います。 その成果が自分の考えた方法で挙げられたならさらに達成感は大きいでしょうが、上司に受けたアドバイスや読んだ本からヒントを得た方法でも成果は仕事をする人の気持ちを充足します。

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[価値観]

[習慣化]

諦めの納得

なんとも意味不明のタイトルです。 自分が諦めの悪い人間であることは欠点か長所かと考えることがよくあります。 そのような気質を生かすか生かさないかで欠点にも長所にもなってゆきます。 問題は程度の話、諦めが悪いというより執念深い事例として前職で役職上位者で評価できない人が私が仕事に集中しているときに頭をはたいていきました。 集中していただけに何が起こったかわからず、状況が把握できて怒りがこみ上げてきました。 結局何もしなかったのですが、その人とは以後の関係が改善する事は無く、約30年経過した現在でも思い出すことがあり、同時に怒りがこみ上げてきます。

もし今、眼前にその男が無防備で現れたとしたら仕返しとして殴るだろうか、過去を忘れ昔話をするか、どちらもないでしょう。 私は仮に挨拶を受けたとしても完全に無視するでしょう。

誰でも再現したくない記憶をもっています。 それは完全に忘れてしまう事が将来に向け、その人の幸せにつながることだと思います。 だからそもそも30年も忘れられない憎しみの記憶をもたなければよいわけですが、その時はかっとなって記憶が刷り込まれてしまいました。 その後30年間たまに再現されたことについては幸福のマイナス要因となりましたし、その男と以後うまく付き合えば会社での人間関係は潤滑に言ったと思います。

しかしその男は内容の乏しいアクションが派手なだけの人間だったので、その男と関係を円滑に継続したことにより人として得るものは少なかったように思います。 つまり自分にとってどうでもよい人間との関係で大事な記憶領域を長期に使ったことの喪失は計り知れないと思います。

そもそもバカ、もしくはバカげたことに対する憎しみは善悪の問題でない場合が多く、憎しみを抱かない価値観を身に着けたいものです。 私はこのようなバカげた感情のゆらぎ、それが憎しみに関わることであれば紙に鉛筆で克明に書くようにしています。 1つの事案を1時間かけて克明に記述すればそのようなこと自体がばかばかしくなってきます。 忘れようと思うより、克明に思い出してそれがつまらぬことであると認識に導くことが諦めの納得ではないかと思います。

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[価値観]

興味

私は太り気味で就寝時に時々無呼吸になります。 昼間に睡魔が訪れ、ひどいときは会議中に寝てしまったりします。 来客と面談時に寝てしまったこともあります。

そこでやせるため食事量を減らし、筋トレを行い、最近では貰い物のエアロバイクをせっせとこいでいます。 部屋を模様替えしてエアロバイク設置し、本を読んだり英会話を聞いたりしてこぎます。

エアロバイクには心拍数計測機能がついていて最初に何もしていないときに心拍数は90を超えていました。 私の年齢では60代後半が標準とのこと、びっくりしてタバコを減らすことにしました。 2日後には70に下がり、ほぼ吸わなかったタバコの本数が増えてきました。

カロリー消費を計算するとゆっくり1時間こいで100キロカロリーくらい消費します。 マニュアルのおすすめは300キロカロリー/日、3時間もこがねばなりません。 10日ほど毎日100キロカロリーこいで体重は全く変わりません。 しかし暖房入りません。 十分体が温まります。 脂肪が減って僅かでも筋肉や毛細血管が発達したと思えばやる気に繋がります。 もちろん体も慣れてきて1時間のエクササイズで体に何ら変化を来さなくなってくるでしょう。 64歳にもなって画期的な体力向上は無理にしても同年代でランニングをしている人などは素晴らしい体系を維持していて羨ましく思います。 私が期待すべきは健康維持、運動不足による疾患は回避できそうです。

体に負荷をかけていて若い時との違いは向上心が湧かないこと、若いときは意地になって続けた記憶がありますが今はこの程度でよいかで止めてしまいます。 結果的にはこの程度が年相応の運動量なのでしょう。 若いときは目標を設定し、目標に向かってがむしゃらにやれたことがわずか3キログラムの体重を落とすことさえ無理してでもやり遂げようとは思いません。

そのように変わってしまった自分とうまく付き合うことがゆとりのある老後なのでしょう。 これから毎年老化の影響が顕著になることを受け入れられたように思います。

 

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[価値観]

長期休暇

会社の代表を退いたので『今までご苦労さん』ととりあえず自分で自分に言って、長休暇をとることにしました。

私の趣味はオートバイのツーリング、暑さも和らぎ、これからがツーリングにとって最高の季節、北海道にしようか東北にしようか、中部地方もよいねと思いを巡らし、ノートに書いた予定を見ると結構詰まっています。どんどん詰まってゆくので、しかも自分で決めた仕事に関するものだからどうしようもありません。

とりあえず10日程度、過去の経験から言って10日を超えると疲れがたまり厭きてきます。 最近は毎年10日程度の北海道ツーリングに行っているので退任記念も何もなくいつもの事なのですが。 7回は行っている北海道にするか、1回しか行っていない東北にするか悩ましいところです。

天気予報は長期に晴れ、行くのは今なのですが何かふん切れないものがあります。 今まではリフレッシュして帰ってくるといつもの日常が待っています。 溜まっている書類をチェックし、面倒くさいながらも一定の存在感の確認ができます。 しかし今回は帰ってきても仕事や書類が溜まっていることはありません。 気楽と言えば気楽ですがそもそも会社に来る必要があるのか、最近は仕事で電話がかかってくることもありません。 さみしい限りですが、我儘を言っても始まりません。

さらに言えば自分の会社への緊張感が途切れてしまうのかと不安になります。 ドアにか毎日、営業日はすべて出勤し、何らかの仕事をし、役割も果たしているのですが。

そこで考えたことはこの際スパッと会社を辞めてしまい、新しい人生を歩んでみてはと思いました。 思っただけで結審したわけではありませんが、元々中途半端が苦手の性格、ツーリングに行くことで気持ちが吹っ切れるかもしれません。

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[価値観]

[生活]

子供のころの価値観

私の母親の生年は昭和元年、1925年です。 92年前で、その後第二次世界大戦を経て戦後のハイパーインフレを20歳代に経験しています。生まれてから戦後までは軍国主義の中生活物資が不足する時代が20歳まで続きます。

モノの値段が上がる、お金を出しても物が買えない価値観を刷り込まれた母はひたすら安売りで物を買い集めます。 以前もこのブログで書きましたが醤油が5リットル棚に入っていたのを見て愕然としました。

父親に買い置いた肌着を父が他界したとき貰いましたが段ボール箱一杯で、なかなか減りません。 整理ダンスに入っている古い肌着を見るにつけどうしたものかと思います。

男性友人の何人かが『肌着は1シーズン立てば全部捨てる』と言ってました。 そのようにできない自分は母親の価値観が刷り込まれているのかと思います。 物を大切にする価値観が悪いと思いませんが、同年代の友人の親は私の親と同年代、刷り込まれた私と刷り込まれなかった私の友人、何が違うのか、所得、職業、思い当たるものはありません。

カーシェアリングは節約の考え方からきていると思いますが、所有することに執着の無い考え方です。

もう一つ親の世代の価値観と大きく異なることが法事、中元歳暮、出張時の土産などの贈答、私は宗教に関心がなく、浄土真宗の檀家から外れたいと思っています。 中元歳暮を贈る事は無く、出張やプライベートの旅行で土産を買いたくない方です。

これら風習に代わるものは人間関係を潤滑にするうえで必要なことだと思います。 節約は方法手段、対象物は変われどもこれからも工夫してゆかねばならない事だと思います。

企業経営でもこれら風土は大変重要で、ひたすら従業員の人件費をケチったり残業させたりすることが重要との考えもまだあります。 人件費は販売管理費の中で最大費目ですから削減する方法は常に考えねばなりません。 個人別の賃金を上げない⇒生産性を上げて賃金を上げる⇒労働生産性の低い事業からの撤退等個別企業内のものから国のトレンドまでいろいろあります。 企業は利益の確保のためにいろいろな戦略を考えます。

個人に振り替えれば所得の最大化、貯蓄の最大化、プライドの維持(所得に見合わない高級車を購入する等)、企業の規範より多様な価値観に左右されます。 一見矛盾する個人の行動はそれがその人の幸せにつながるからで、擬人化して企業の幸せを利益の最大化と定義するのはあまりに短絡に思えます。

ある企業は100年続いていることから経営の継続が大きなテーマになるでしょうし、ここ最近に設立されたIT企業は100年後を考えていない可能性が高いと思います。 経営において100年後の展望が重要がどうかはさておき、基本を外れて価値観を風土化すると問題があります。 よく言われるのは企業経営では経営の継続が大きなテーマという事です。

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[価値観]

33歳の挑戦、63歳の挑戦

私は63歳、もうすぐ誕生日を迎えます。 私が若かったころは63歳は全くのおじいさん、おばあさん、現在は現役で働いている人が多くおられます。

私は日々自分の能力向上に努力しています。 例えば筋力トレーニング、もともとは原料のため筋肉をつけて基礎代謝を上げようとするためでした。 最近では『早く腹筋がぼこぼこ形として現れないか』と思っています。 頑張れば可能でしょう。

英会話のテープを聞いています。 英語圏に旅行して日常会話に困らない程度にはうまくなると思います。

最近復活したゴルフ、スコアは120程度ですが90台を目指すのは可能でしょう。 しかしボディビル大会で優勝を目指したり、英会話でタフなネゴシエーターになったり、ゴルフでパープレイを目指すなどは御金に糸目をつけず、ほかのことを何もしないで努力を積み重ねたとしても可能性は低いと思います。

たまたま33歳の男性と話をしていて、今から医者になると頑張って勉強していてかなりの成績まで上がってきました。 3年前まで仕事も勉強もしなかった人が一念発起、センター試験で80点、私には評価できませんがかなりの好成績、医学部にはまだ足らないそうです。 殆どのプロスポーツ選手など年齢が限定されていて、50歳を超えたプロボクシングチャンピオンは聞いたことがありません。

何歳になっても人間の能力は鍛えれば成長できると期待されていますが内容によっては限界があり、受験勉強などは限界が来るものではないでしょうか。 限界が来るかもしれない理由もデータもありませんが、63歳になった今挑戦する気が起こらないものはたくさんあります。 自分が33歳の時にはどうだったか、楽天家であった私は限界を意識したことがなかったように思います。

ただその時期に老化が始まり、髪の毛が抜けてきました。 それと体力や持久力と関係がありませんが今にして思えば『いつまでも若いと思うな!』という神様からのメッセージに思えます。

最近は気を抜くとすぐに体重が増えて体か重く感じられ、動くのがおっくうになります。 億劫になると動かなくなり、ますます体重が増えてゆきます。 若いか老いているかの違いは億劫がるかどうか、まめさを心がけています。 まめに動けるかどうかは気の持ちよう、筋トレや英会話、ゴルフなどは気の持ちようでかなりの事が出来る、老いの原因の多くは気持ちに軸足を置いていると思います。

確かに一方で物理的限界はあるのですが。

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[価値観]

意志を示す

日米交渉でアメリカの代表が『show the flag』と日本側に詰め寄った話を記憶しています。 何の話題で誰が言ったのか覚えていませんが強いインパクトを受けました。

日本語で言えば『旗色をはっきりせい』というところでしょうか。

会社は組織に関わる決定を日々行います。 重要事項は稀ですが、細かな決定は多くあり、各管理職段階で付与された権限に基づいて多くの決定がなされます。 決定に沿って業務=作業が進むわけですから作業の数だけ決定が行われているということでしょうか?

決定自体の品質もさることながらタイムリーにというか速やかに行われるかは大きな問題です。 上位の管理職ほどその割合が多く、現場に近い人ほど決定の重みは減って作業の重みが増します。

決定にとって必要なのは方針・考え方・事例などの情報でしょう。 上位の管理者は不確実な=前例がなく予測が困難な決定を多く迫られます。 経営者は企業規模の大小にかかわらず予測が困難で影響が大きい選択が迫られます。

結果の責任はすべて経営者にのしかかり(責任を取るかどうかは別として)、決定そのものが最善であったとしても執行者がうまく行えない場合も多くあり、それでも責任を取らねばならないので臍を噛む思いは多くあります。

減点主義の組織では大きな失敗は失脚を意味します。 民間企業はどちらかと言えば得失点で評価されます。

何をもって決定が誤っていたかという評価では見方が分かれます。 ある営業マンはこのような戦略で自分の得意先を攻略したいという意思を社内外に明示して、社内的にもその意志が認められていれば結果が評価になります。

バントのサインが出ていたけれどフルスイングしたらホームランになり、その打者は監督から叱られるという場合です。 この例では監督の意志である指示が出ているわけですからそれが評価の基準、監督から指示がなければバッターは明確な意思を持たなければ出塁がかないません。 臨機応変、決め込むとチャンスを逃すなどいろいろな話題が出ますが、ここ一番でヒットを打ったバッターは例えばレフトに長打を打つことを狙っていたなどと明確な意志をもってバッターボックスに立ったと証言している場合が多いと思います。

結果センターにヒットになればそれでもよく、何も考えずバットを振ったらセンターに飛んだでは確率は低いと思います。

私は野球ではなくテニスをよく見ますが、あるトッププレーヤーが『この位置にトスを上げ、ドライブ回転をかけたサーブをセンターにうち、ネットにダッシュしたら想定した位置に返球されたのでボレーで決めた』という証言を聞いたとき、そこまでイメージしてプレーしていることに感心しました。

経営判断は秒単位の切迫感がないので、こうしてああすればとストーリーも描けますし、どこまで意志を外部に示すか時間もあります。 決定に関わることはこのように明確な意志を持つべきだろうと思います。

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[価値観]

偶像

人は象徴的なものを求める傾向があります。 自分の気持ちを高めたり、意識を集中したり、獲得した境地を新たにするために塑像や絵を用いたりします。 それが野蛮なことでは決してなく、テニスの選手がグリップにつけたマークを見つめることで集中したりしています。

チベットの地(現在チベットという国はないし地名としてかつて吐蕃王国があったエリアを示す)の山を登りに行ったときに滞在したエリアのチベット人はラマ教の熱心な信者で、地面に棒を立ててロープを張り、経文が印刷された布を張り付けた場所に出向いて、『友達と喧嘩してしまった』などと懺悔し、心のもやもやを浄化させるようです。

企業において創業主の像があったり、管理職だけに許される制服があったり、役員用のバッチがあって職員がみなあこがれをもっていたりします。 これらも偶像と考えられるでしょう。

会社において代表取締役の究極の役割は何かと自問することがあります。 会社全体の方向性を示したり、大きな問題の責任を取ったりすることでしょうか?

よく大会社で職員の一人が違法行為をなして世間を騒がせたりすると代表が出てきてマスコミ相手に謝罪し、進退を問われます。 「責任を取って辞めます、再発防止に全力を注ぎます」などと答弁があり、辞める人には不運であったと同情が集まり、留まる人にはそうまでして役職にしがみつきたいかと思われるでしょう。

いづれにせよ個々に事情があり、代表の管理で防げた場合は辞任もありうるし、全くあずかり知らぬところで起こった事件なら辞任することに何の意味もないでしょう。 必要なのは役職に応じた責任を取ることと思います。

しかし代表への一般の認識は、全経営責任をはたす考え方が一般的で、代表は全能者であることが裏打ちされているとおもいます。 すべての権限を委任したり行使したりしているかは別として持つものが代表という考え方ですから全責任を負うのは当然と考えられがちです。

それは国家官僚のような旧態とした組織でもIT企業のようなコンテンポラリーな組織であっても、またヤクザのような任侠道の組織であっても、軍隊のような戦闘集団であってもみな同じように思います。

私はすべての役職、地位において権限を持ち、権限に従って意思決定したことの責任がついて回るもの、それで組織は語れると信じていました。 組織の権限構成は完ぺきではなく、権限間に隙間があれば組織のほころびが起こるかもしれません。 費用対効果からレアケースのための責任者を省くこともよく行われます。 したがって、隙間だらけの中で起こりうる事故は末梢の問題であっても代表の責任となってしまいます。

それはそれで合理的な判断ですが、規定などで成文化してそのリスクを網羅することはあまりに煩雑です。 そこで代表は全能者であるという話題に繋がってしまいます。 全能者を表すものはこれこれの権限を有するというものではなく、彼が怒れば怒りの対象は正しくなく、彼が正しいといえば正しくなってしまう、つまり『彼』は偶像そのものになってしまいます。

資本主義や民主主義が発明されて何世紀も経過しても人の営みは全能の神を必要にしているように思える時があります。

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