監査役BLOG

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朝三暮四

中国古典の現代訳本を読んでいると世界の軍隊の幹部が読んでいると解説がありました。 近代装備の先進国軍隊司令官からアルカイダのようなゲリラ組織の幹部まで読んでいて、国籍も問わないそうです。

私も読んだことはありますが、なかなか日常業務に応用できていません。

私が懇意にさせて頂いている経営者の方で、大変スマートで誠実な方が自らの従業員の処遇を巡り、『朝三暮四』を引き合いに出しました。

その人の行う事業に従事する職員の一般的賃金水準は決して高くありません。 従事する人は解っていても賃金に対する不満はついて回ります。 デスクワークが多い仕事で、基本給、残業代の支給、休暇・休日制度の運用、すべて適法に処理されておられます。 年収に換算すると決して高くなく、それが相場でありながら不満を持つようです。

経営者の方は考えて基本給をさらに下げる代わりに残業代を厳格に支払うことを約束されたようです。 そのことについてタイトルの『朝三暮四』を引き合いに出されました。

中国の故事でお猿をたくさん飼っていた人がエサ代に困り、餌である木の実を朝に三つ、夕方四つ与えるとお猿に言うと、お猿が少ないと怒ったそうです。 そこで飼い主の老人は『では朝に四つ、夕方三つではどうか』というとお猿は大変喜んだということです。

飼い主の老人は一日の木の実は七つで変わらないのにと思ったことでしょう。 しかしお猿の立場で見ると事情は少し変わってきます。 お猿の餌と人の賃金を同列に考えるのは少し不謹慎ですが、仕事の難易度は個々に違いがあり、残業を必要とするものとサクッと仕上げる仕事があります。 難易度の高い仕事で残業して仕上げれば残業はきちっと評価される、しかし平均すれば個々の職員に振り分けられる仕事は経験に応じてバランスを保たれるわけですから、ほとんど残業が発生しないよう工夫されてています。 経営者はそこまで配慮しているので個々の作業について残業して完成させることに意味を見出さなかったのでしょう。

世の中には同様の現象が多くあり、当社においても営業職の初任給で話題になります。 当社の営業職の初任給は低くく設定されていて、他業種と比較して見劣りします。 もちろん介護事業は制度ビジネスで、国が事業における利幅を厳格にコントロールしていますから、同業も賃金は決して高くありません。

当社の報酬における基本的な考え方は相場と会社への貢献度合いで決めるものとしていますから、営業職が会社に利益貢献すると十分な報酬を支払っています。 少なくとも業界内比較ではかなり高い方だと思います。 募集をかけても見劣りするので応募者が集まりません。 そこで初任給をあげてはどうかと意見がたびたび出てきます。

人件費総額は変えられませんから同然高い報酬を得ている人から報酬の低い人に付け替えることになります。 これでは平等を目指して逆不公平になります。 少なくとも今働いている人は望まぬ方策になります。

それでも初任給を高くして優秀な人が集まり、会社全体として効率化が図られれると人件費総額を大きくする事が出来て人件費増を吸収できるという考えもあります。 もちろんその可能性を否定できませんが、私は次の二つの考えから反対しています。

一つは目先の賃金水準を職業選択の基準にしている人は将来ベテランになったときに期待する賃金水準が低いと不満が募ることになります。 制度ビジネスは大きく景況が変化する可能性が低く、安定している業界なので、その保険料から賃金は低いという考えも成り立ちます。 そもそも職業選択ということであれば自らの適性を選択基準にすべきで、生活できない水準でなければ目先の賃金は無視してはと思います。

二つ目は職業というとプロフェッショナルですから、貢献が収入の基礎であり、貢献の多寡にかかわらず勤続年数などで報酬が決まる割合は出来るだけ排除したいと思うからです。 民間企業は利益がなければ消滅するだけですから、当然の考え方と思います。

成果を正当に評価してほしい、つまりやったらやっただけ収入が増えることを良しとする意見は面接時によく聞きますが、そのような意見の人が成果を出せず、昇給しなかったときに真っ先に転職に走るのを見ているとかなか考えを変える事が出来ません。

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自分の意見

北海道へのツーリングで海外の青年の出会い、話をしました。 場所は稚内のユースホステルで、私から声をかけました。

見るからにバイクのツーリストと思ったら自転車で来られた台湾人です。 日本語は全く話せず、片言の英語とスマホがコミュニュケーション手段、大学を7月に卒業し、警察への就職が決まって自転車を担いで空路千歳に来られたそうです。

なぜ警察官になったのかと聞くと、給料が良いから、しかし市民から嫌われているとのこと、はっきり言う人です。 そこに遠慮もなければ、空気を読むなどもありません。

日本の車、トヨタは素晴らしい、日本は清潔、安全、食事がおいしい、日本をほめます。 褒められたら悪い気はしないだろうということでしょうが、ほんとにはっきり褒めます。

私もお返しに台湾の自転車メーカーのジャイアントや故宮博物館の話をそれとなくしました。 果たして褒めているように伝わったか定かではありません。

大変勇敢で、行動力を感じる青年、何ら嫌味もなく好印象の人でした。 帰阪して北海道出身の懇意のバイク屋のご主人にこの話をすると日本人でもいくらでもいる、とのこと、彼の客はバイクを買って言葉の通じない国に何人も言っているそうです。

どうやらそういう行動力が衰えてきた自分から見て、若い行動力がまぶしく見えたのでしょう。 はっきりした意思表示はそのことを強調したのかもしれません。

帰宅してたまっている日本経済新聞、約一週間分は五cm程度の厚さになりますが、日付順に読んでいると『言葉のぼかし表現浸透』というタイトルが目につきました。 『微妙』は良し悪しが判断できぬとき、『わたし的には』自分の責任回避とサブタイトルがついています。

営業職の採用面接をしているとこのような新しい表現(言葉は昔からあったが使いまわしがかつての慣用とことなる)を多用する人がいます。 時に真意を問いただし、ある時は『わたし的には』と言いつつも自らの意見でないことを言い、つまりは評論ですが、だったら何が君の意見なのか?に行きつかず、イライラが募ります。

利害関係のない人間がどのような考えを持とうが構わないし、干渉する気もないのですが、採用面接で自分の考えを主張しないで第三者はこんな意見も言っているというのは何ら生産的ではありません。

明確に自らの意見を述べることは意見に対する責任もついて回ります。 しかし責任ある意見を全く持てない、もしくは披歴する気がなければそもそも組織になじめるのか、自分の意見がない方が組織に馴染み易いと考えからこそ無色透明の意見のようなものを言うのでしょうが、少し勘違いのように思います。

もちろん組織で自分の意見に固執すれば生きにくくなりますが、自分の意見をもっているからこそ他人の意見はその対比として理解しやすく、その繰り返しが多様な価値観の中で正しい選択ができる、正しい大人になると思います。

台湾から来た自転車青年が帰国後、警察官としてうまく組織に馴染み、信頼されるようになる事を願います。

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難民

政治や宗教の話をブログでするのは御法度ですが、今回回りくどい、奥歯にものの挟まった言い回しでしてみたいと思います。
事をひつ
日本がアジア近隣諸国から第二次世界大戦時の侵略につき、きびしく反省を求められています。 反省を求める国がなぜ賠償も終わったことを蒸し返すのかにはそれぞれの内政の問題があるようです。

つまり現政権への不満を外交問題にすり替えるというものですが、その国の低年齢教育で戦争評価の刷り込みをした結果の裏返しというのが報道される解説です。

そうした怨念に支えられた政治が各地で戦争を引き起こし、日本においてはヘイトスピーチに繋がったりします。

世界のどの対立を見ても対立する双方にとって対立することそのものを目的としているのではなく、政権安定や経済発展のために行っており、誰かを悪者にするとかで問題解決を図る手法がいかに高くつくか、経済制裁やその国に対する世界の信用が失墜して経済発展を阻害している観もあります。

日本が安全保障に関する法律を変えて戦争への弾力性を高めようとするのは一定の必要性があると思いますが、日本自体が戦争を求めていないことを世界に知らしめる必要があると思います。

EU諸国に民族大移動的な難民の流入が話題になり、EU諸国は難民の排除や他国への押し付け合いに必死になっています。 難民の中にはテロリストも含んでいるとか、難民流入は経済的な負担を増すだけでなくテロの危険性も増します。 しかし難民の方々は困っていて、EU諸国で負担できないなら日本も受け入れればよい、難民の皆さんが日本へは行きたくないならともかく、受け入れて手厚く保護すればよいと思います。

それより先に保護すべきわが日本人いることを忘れていないか?、外国人の受け入れが治安の悪化につながるのをわかっているのか?
と非難されそうです。 しかし医療費を3兆円節約する方法を考え、その3兆円で100万人の難民を受け入れ、教育を施し、日本に住みたい人にはボランティアを募って日本語や日本文化を教え、何十年か経って日本に帰化した人たちが日本の経済や産業に貢献するようになれば人口減少や過疎の問題への対処、遅れている日本の国際化、国際社会での日本の評価は改善すると思います。

一方で前述した問題も副作用として出てくるでしょうが、武力を強化して威信を増すのと並行して行っても良い施策と思います。 いったいどうやって3兆円を捻出するのか、それも大変な問題ですが、前述した医療費削減や観光振興、農業構造改革、当社の位置する介護事業の見直し、無駄の排除など痛みを伴う改善はいろいろあります。

日本は先進国、と言われていますが産業技術はそうでしょうが政治や経済政策、文化面で先進かというと疑問があります。 例えば文化の洗練が遅れているからこそ起こる問題も多くあります。 ここらで発想を転換し、国も企業も家庭も文化や価値観について考え直す時期が来ています。

 

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キレる

何もないのにイラついて、些細なことで感情がコントロールできないことがあります。 手が震え、頭の中は真っ白、原因を作った人に当たり散らします。

誰でもそのような経験があり、頻発する人は社会性が乏しく、上から押さえつけられるととんでもないエネルギーに展開しますが、少し時間がたつと何でもなかったようになります。

私の友人でも多くの人がその性癖をもっていて、人によっては暴力に走ったりすることがあり、周囲の人間はハラハラします。

私の場合、最近は幸いにも殆ど怒らず、また小さなものが起こっても抑えることができるようになり、怒鳴り散らしたりすることは無くなりました。 しかし抑えきった後の数日は胃の調子が悪く、下痢をしたりします。

いつも原因が何かを考えますが、そのようになった自分を正当化するために善悪の尺度で測ったりしますが善悪の要素はあってもその反応として切れてしまったことの合理的な説明になりません。

一方、全くといってよいほどキレない人もいます。 少なくとも自分の周囲の人間でそのような状況を見たことのない人の事ですが、感情の突発的な衝動をいわゆるキレた時のような反応ではなく、内に込めているかお酒で紛らわしているか、心の中で起こっていることが同じでも人の対応は様々だと思います。

私がイメージするのは心の中に一つ一つかたまりになっている火薬が詰まっていて、何かが火をつけると爆発するというものです。 いっぱい火薬があっても殆どの場合そのうちの一つが爆発し、一つの爆発でほかの火薬が誘発していないように思われます。 また、一つ爆発したから一つ減って、何度も爆発を繰り返すうちに心に詰まった火薬の数が最後にゼロになるということはないように思います。

年齢を重ねて火薬が爆発しないようになるかと言えばそうではないように思いますし、何もなしに消えてしまうこともなく、気が付いたら増えていることも減っていることもあります。

私もこの火薬の扱いに苦労し、つまり感情の衝動のコントロールに苦労しますが、何かを成し遂げるときにこの火薬が役立っているように思います。 自分が何かをやろうとしたときにそれをやめさせようとする自分がいて火薬を少し爆発させることで止めさせようとする自分を吹き飛ばしてしまうようなイメージです。

やった方がいいのかやらないほうがいいのか、悩んでも結論が出ない時、これによって反対する自分がなくなるわけですから自分にできることは出来てしまいます。

例えば何かの試験勉強をしなくてはいけない時、どうせ通らないとかめんどくさいとかネガティブな自分を吹き飛ばしてしまったとき、勉強が始まりテキストの字が読めなくなって初めて日が暮れたことを知るようなことです。

それではネガティブな自分をいつも爆破していればやりたい事が出来るかと言えばそんなにうまく行きません。 自分の心のコントロールは難しいのです。

会社で不満をもった職員を観察していて面白いことに気づきました。 ある職員が報酬の不満をもっているとします。 この人だけが不満を口にします。 数年たってその人が一流の仕事ができるようになり、貢献に応じて報酬を増額すると『もらいすぎだ』と言います。 この人はお金にこだわりの強い人かと言うとそうではありませんでした。 入社したころは確かに報酬は低かったですが、先輩や同僚への不満がありました。 その問題が解決したと同時に彼の会社への貢献が大きくなって報酬増額の時期と重なり、『もらいすぎ』と言う話になりました。

自分の感情すらコントロールできないのに他人の感情はなおさらコントロールはおろか感情を動かす原因すら理解できません。 本人すら理解しておらず、それが報酬への不満につながったわけですから。

もし彼の心の中をのぞく事が出来たら、心の中の火薬を私より随分小さくして、少しずつネガティブな自分にぶつけているのか、キレることなく淡々と仕事をしています。

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[価値観]

[生活]

働くことの意味

採用面接でなぜ応募したのか質問するとさまざまな答えが返ってきます。 社会貢献を果たしたい、やったことに感謝されたい、困った人を助けたいなどです。

ケアマネージャーと話をしていて、利用者のお一人が修験品をバザーに出店し、なにがしかのお金を稼いだことに対して大きな喜びを感じた話を伺いました。

介護を必要とする年代になれば積極的にお金を稼ぐというわけにはゆきません。
喜びの本質はどこにあるのか、お金そのものにあるのか、それともお金を稼いだこと=社会に価値をもたらし金銭で評価されたことかとおもいます。

自分の母親を見ていてそれなりに資産を持っていながら子供や孫にかすめ取られることは大してて苦にしておらず、その一方でお金を稼ぎたいばかりに株式投資などにお金をつぎ込み根損失を重ねていると自ら稼ぐことに大きな喜びがあるようです。

高齢者に限らず新卒の人も自らお金を稼ぐ=貢献を果たすことの意味を原点に戻って考えれば職業選択はもう少し整理できるでしょうし、私の母親のように誤った稼ぎ方から足が洗えるのではと思います。

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[会社運営]

[価値観]

時間管理

当社の管理職と就労時間、つまりは残業の多さについて話していました。 ある幹部職員の長時間就労が話題でした。 管理職なので本人が残業していても休日出勤していても残業代が支払われることはありません。 だから長時間勤務はどうなのか、という話ではなく、長時間すぎて健康を損なうのではないか、という心配からです。

本人には何度も何度も顔を合わせるたびにそのことを伝えますし、必要な打ち合わせも瞬時に終わらせるようにしています。

彼の仕事は無から何かを作り出すような仕事、薬局業界で大手以外では珍しい営業の仕事をしています。 初めの一年はなかなか成果が上がりませんでしたが、いろいろ工夫し、毎回違う形で大きな実績をあげるようになりました。 つまり人脈形成に1年かけて、広い人脈が相互作用で当社への貢献につながったわけですが、継続取引ではないので毎回違った切り口の商談を作り出すという離れ業をやっています。

広い人脈を維持するうえで毎晩の会食が時間外の仕事を増やしています。

一般の営業職もやはり残業時間が長く、残業短縮に向けて様々な取り組みを行っていますが、こちらは活動内容がある程度定型化できるので、効率化が可能だと思います。 此処での効率化はコミュニケーションスキルであったり、時間管理であったり、事務処理のIT化や分業など方法が見えていて、徐々に成果が表れています。

営業の効率化は、営業の管理職が仕事の進め方について本人スキルが高まるように指示することが多いと思います。 営業職が行うべき業務を分解して、その一部をこのようにしなさいということになるので、営業職でありながら定型作業の遂行に近くなってゆきます。 したがってやらされてる感が話題になったりします。

好き勝手にスケジュールを立て、自分の考えた方法で実績を上げ、実績がそのまま評価につながるわけですから一種自営業のやりがいがあります。

前出の薬局営業担当者は個人で動き、人間関係を築いてゆくわけですから自己研鑚というスキルアップになります。 ひたすら人間関係を築き続けるのが自己研鑚なのか、それとも落語など話術を磨くのかわかりませんが、当人は日々人脈つくりの結果、机の上には名刺の山が築かれています。

薬局営業担当の長時間就労の話題に区切りがついて、そう言えば他に長時間就労といえば私もですね、と言うとその管理職は笑いながら『経営者は別ですね』と返されました。 経営者も人間、しかし個別具体的ミッションより全体責任を果たすのが仕事の要になりますし、別に何もしなくても誰かに叱られるわけでもないので、オンとオフのけじめがつきにくい職種と言えるでしょう。

しかし経営者も人間、激務をこなす超人もいればゴルフのハンディがシングルと言う人もいます。 結果的にその会社が黒字であればゴルフのハンディがシングルでも問題はないのですが。

私の場合、比較的健康に恵まれているので超人とまでは言わないまでも体調を崩して休むことは何年もありません。 62歳の年齢を思えば恵まれています。 しかし仕事が若い時のようにできるかといえば年相応に老化しており、支障をきたさないために食べること、体を鍛えること、頭を鍛えること、ストレスを発散することにかなりの時間と労力を使っています。

若い営業の人たちもいろいろ工夫し、努力すれば残業も減るのにと思いつつ、薬局営業が自分なら彼ほどできないにしても同じように長時間就労になっていただろうと思います。

結果だけしか評価にならない仕事で、結果が出ない時や結果が見えにくい時の焦りは経験しないとわからないことです。 それに苦しんだものは常に何かをやり続けていなければ不安に耐えきれないのではないでしょうか。 その人に向かって、休んで遊びに行ってこいとはなかなか言えない話です。

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罪と罰

社員が罪を犯し、本人が心から反省して罪を償い、現在活躍している人がいます。 その一方で、その人への批判を続けてる人がいます。

そもそも贖罪を認めないなら、一度罪を犯した人は社会に復帰できないことになります。 罪を償わない場合、その人を許さないのは当然としてですが。

アメリカのサウスカロライナ州で起きた銃乱射事件はアメリカ社会で繰り返される人種差別事件で、白人男性が黒人教会で聖書勉強会に参加していた黒人9人を射殺した事件です。

オバマ大統領はこのような事件のたびに銃の規制を訴え、民間人が銃の保有を規制する法案を出しています。 それがこのような不幸な問題の再発の抑止になるのかわかりませんが、再発を防ぐ対策を講じるのは当然のことと思います。 そもそも国政のトップである大統領が黒人の国で、このような事件が何度も起こることが個人的には理解しがたく、アメリカ社会の複雑さを表わしています。

その容疑者の裁判で遺族が証言台に立ち、『ヘイトクライム(憎悪犯罪)の連鎖を断つには罪を許す以外にない』と証言されていることです。 確かに犯罪の連鎖を断ち切るには報復は避けるべきでしょうが、罪は罰と連動すべきものだと思います。 証言された遺族の方は心情として罪を許し、犯人を釈放すべきと言っていないと思います。

罪と罰の話題において私が印象に残る話が一つあります。 私の叔父が高校の教員をしていて、生徒が何か不始末をしでかし、その処罰を決める職員会議で叔父が退学処分を提案したそうです。 生徒の犯した罪と校則や過去の処罰からそのように主張したらしいです。 それに対して生徒の将来を考え、退学処分に反対された教員がおられたそうです。 叔父は罪と罰との兼ね合いから退学処分を判断し、反対した同僚や罪を犯した生徒を批判することはありませんでした。

当時小学生だった私にそんな話をした叔父は心情において釈然としなかったのかもしれません。 50年近く経過した今でも鮮明にそのことを思い出します。

私も立場上、職員の評価や懲罰の判断をしなければならない場合があり、人が人を裁いたり評価することの限界を感じます。 業績の悪い営業の査定で、公平感を保つために査定の算定方法を明確に決めていますが、厳格に査定しても結果に疑問が残ります。

大変低い評価だった営業職員は仕事に取り組む姿勢も前向きで、たまたま良い業績があげられなかったように思われる場合などです。 何とか少しでも査定を良く出来ないものか、と考えいろいろ情報を集めてみますが査定方法の不備にまで至りません。 本人もつらいでしょうが査定する方も苦しみます。

これは査定の話で、懲罰となると就業規則に照らし合わせて判断します。 就業規則では罪に当たる行為が広範なので抽象的に書かれてあり、罰に当たる処分内容もかなりの幅をもって定義されていて、適応において高度の判断が必要になります。

他所の経営者も同様の悩みがあり、話題になります。 罪は罪、罰は罰、悩みは本人事情を知るが故の心情の問題なので最後は公平性の観点から慣例に従いと言うことになります。 そして意味をなさない悩みはその後の本人への努力に対するエールに変わっていきます。

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[価値観]

会社の居場所

昨晩は当社の社員総会、社員の9割弱が参加して幹部の業績評価や次期の方針、優秀者の表彰、新人紹介などを行います。 そのあとは立食パーティとなります。

殆どの人が見知った人同士が話をしたり、幹部に酒を注いだり、同じ部署で集まっていたりします。

中には人間関係を社内でまったくというほど作らない人がいて、さみしそうにしていたりします。 そのような人も来ていただいて何とか人間関係を作ろうとしていますから誰に話しかけても応対されます。

以前、セミナーで他社の社長が『社員に一番必要なのは自分の居場所』と言っていたのを思い出しました。 ここでの居場所は会社組織の中での自分の役割や存在価値、もしくは人間関係という意味だったと思います。

もしその人が突然いなくなっても誰も初めからいなかったように違和感を感じない人は居場所がなかったということだと思います。

当社にもそのような人がいて所在無さを醸し出していたり、誰か未知の人と話をしようとしていたりします。 もちろんその人は会社できちっと仕事をしていますが、指導的な立場ではなく、どちらかといえば指示された仕事を一人で淡々とこなす人です。

人の考え方はいろいろで孤独が良いと思っていたり、その同じ人が実は人と群れたいと心の底では思っていたり、何かドラマに出てくるような自己矛盾のシーンが垣間見られます。

ちなみに私は子供の時からオヤジに刷り込まれた「君子の交わりは淡として泡のごとし」に近いと思います。 意味は大人の付き合いは淡泊ということでしょうか。 しかし私も自己矛盾があり、べったり濃い付き合いをしたいと思いますし、そのような人間関係に好むと好まざるとにかかわらずなります。 しばらくしてその関係がうっとうしくて、気が付いたら疎遠になってしまいます。 ほとんどの場合私から疎遠になっていて、大抵全く音信不通になっています。

それが自分の冷たさと思うこともあり、また何十年もの付き合いの友人・知人の多い人を羨むときもあります。 最近は疎遠のなり方で、相手が傷つかなければそれも人間関係のあり方と思っています。
誰でも自己矛盾を抱えていて、その対処に悩みながら人生を全うしようとしているのかもしれません。 そもそもそんな自己矛盾をなくすことなどできないのですから。

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自らの成長

採用面接で目標をもっているか質問します。 もしくは何かやる時に目標設定するかどうか、という質問です。

よくある回答が『職場で仕事をうまくこなす先輩を目標にしています』といった答えが返ってきます。

私も毎週の行動目標を立てています。 たとえば腕立てを何回するとか、〇〇を読むとか、ゴルフなら前回スコアを下回るとかです。

昨日の自分が競争相手で、第三者を目標に設定することはあまりありません。 私の中では向上するということは自分自身の問題で、第三者を目標に自分を比較するのが好ましいと思わないからです。

抽象的な目標、例えば皆に好かれるといった目標は自分の行為行動を反省し、自分がされたり言われたりしたら不快なことはなかったか振り返り、なぜそのようなことをしたり言ったりしたのか、そうする必要があった場合、ほかのやり方、言い回しはなかったのか考えます。 親切にも『お前の今の言い方はなんや』と叱ってくれる友達もいます。 だから反省するネタに困らない、別の言い方をすれば人を不快にさせてばかりということになります。

自分の性格に問題があるのか、そもそも誰でも程度の差はあれ同様に不快な行動・発言があるのか、他人との比較をあまりしないのでよくわかりません。

しかし、反省し、振り返り、己の行為行動や発言が少しずつ良くなり、「最近丸くなりましたね」と言われるので少しはましになったのかと思います。

最近ある人から自己中心と批判され、これには困ってしまいました。 他人を目標にしないから、つまりは自分が良い性格になろうとするから自己中心といえなくもありません。 ずいぶん悩み、ストイックに自己改善を図ろうとするのは結局根底に自分の隠れたエゴがあるのかと自分を疑ったりしました。 自分中心でなければ他人中心か、というのも変な話です。

結局自分も含めて人間関係の中で、例えば家族の中で、職場でうまく自分が生きてゆくことでしょうか? それは八方美人を目指しているようにも思えるし、自己犠牲を求められているようにも思えます。

他人への敬意や配慮、人は孤高に生きているわけではないのでそういったものを念頭に自己研さんを積み、昨日の自分を超えることを目標にしろと批判されていると結論付けました。 そんな難しい生き方は大変だなと思いながら思いを巡らす日々です。

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[生活]

人生の目標

私は日常生活において毎週目標を設定しています。 たとえば今週はこの仕事を仕上げるとか、掃除は何回するとか、筋トレ何時間などです。

この目標は一年ぐらい続けていて、以前は今週出来たことを週単位でメモにしていました。

目標設定するようになってから違和感を覚えるようになりました。 『そもそも目標は結果を示すもの』という疑問です。 筋トレを毎週何時間もするのはその先に肉体美を整えるとか、ですが肉体美を整えるという目標は設定したことがありません。 むしろ60歳を過ぎて体力に自信を無くし、何とかしようと考えたからで、その前に無呼吸に陥って体重を減らす、食事を改善して筋トレをすると繋がっています。

無呼吸を改善する、そのために体重を何キロに落とす、最終目標からどんどんプロセスや方法に落とし込んでしまったために目標設定に違和感を感じたわけです。

そこでいったい自分はどうしたいのか、を考えました。 会社にも私より年上の方がおられ、皆大変お元気なのですが、それとなく聞いてみました。

所得の面で働かなくてもよい人も多く、責任や拘束の軽い仕事を比較的低収入でやっておられます。 体も元気、頭もしっかりしている、能力も高い、しかし余生を遊んで暮らしていては社会との関係が薄れ、人生に充実感がないので働く意義に価値を見出しておられるように思いました。

私の場合、定年がなく、オーナー企業の代表ですから辞めろと言う人もいません。 しかし企業の代表としての職務を全うしたいと思うのは当然で、そのために健康でいる必要もあるし、向上心をもって仕事に取り組まなくては立場に立っているだけになります。

仕事は事業全般を監視し、決定を下し、成果を生むことにありますが職員に相談できないことも多くあります。 ある人にそのことを遠回しに言ったら「そんなことは立場・個人の問題で立ち入ることはできない」と一蹴されました。

多くの決断をなし、時間の経過とともに結果が出て、『あの決定が間違っていた、自分のミスだ』と嘆くことは多くあります。 うまく行って当たり前、失敗したことは忘れられません。 手を抜いていたわけではないけれどミスジャッジはいつまでも心に残ります。

このように結果にとらわれ、嘆き苦しんでも生産的でなく、また失敗した決断が次に役立つとは限りません。 周囲が賛成しようが反対しようが自らの感性を研ぎ澄まし、毅然と判断する、それができるよう常に自分を磨いておくことが必要になってきます。

別にガンコになろうと言っているわけではなく、常にベストコンディションで決断する、それが良い結果を生まなくても結果は結果と割り切ることだと思いました。

だから日々の目標設定も日々の精進として結果を目標にしない、良い結果を生むプロセスに注力しようと結論付けました。 もちろん結果を想定しないわけではありません。 結果にとらわれて個々の決定をくださない、常に健全でよい判断をすれば結果はある程度ついてくると考えるようになりました。

かつて女子テニスプレーヤーのグラフ選手はサーブの時に何を考えているかと聞かれて『トスをこの高さに上げスピンをかけセンター奥に落としてバウンドさせ、浮いてしまったリターンを相手バックにフラットで打ち込む』といったプレーを頭の中で映像として描き、その通りプレーすると言っていました。 このセットを6対2でとるとかは言いません。

同じように健康を維持して健全な判断ができるようにする、そのように考えて腹筋をすればより健康につながるように思います。

結果は重要ですが、結果を目標にすることは上手く行かない気がしました。

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