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汚い言葉

「コンババ」という言葉がある人との会話の中で出てきました。 在宅ヘルパー職の方で、「コンババてどんな意味? 紺色のおばあさんのこと?」ときくと「根性、ばば色のこと」と答えが返ってきました。

生まれて初めて聞く言葉、私は1953年守口市に生まれ、最近まで守口から出たことのない人間、本来言葉の汚いと言われる北河内にいて初めて聞く言葉です。

守口での人間関係が上品な人、下品な人、裕福な人、そうでない人、昔から住んでいる人、引越してきた人と多様です。

昔から守口に住み、いわゆる北河内弁を話す人も同級生にいましたが大変柔らかなイントネーションで今でも世間で言われるような汚さを感じません。 もっともそのような古語を話せる人は私の年代でも2人しか記憶にありません。

もう一人は守口郊外のまだ農村といったところにすまれていて、私が子供の時にすでに相当高齢のおばあさんでした。 そのおばあさんの話し言葉は『ございます』が『御座ります』というのが特徴でした。 残念ながらこの方はだみ声で、話の内容も問題があり、決してやわらかい感じはしませんでした。

吉本の芸人の言葉が関西弁の代表といわれて久しいですが、60年前までは地元でも何を意味するか分からぬ言葉が多くありました。 たとえば私の祖母は海苔巻を『オスモジ』と言っていました。 それにイントネーションの違いが加わるとわからなくなります。

親戚の叔母は船場の商家『いとはん』(長女)、全く違った言葉づかいでした。 同じ大阪でも北河内、中河内、南河内で言葉は違いますし、中心部でも異なる方言が発達したようで、泉州の泉州弁に至っては外国語のように聞こえます。

しかしコンババはこれらの歴史を踏まえた方言を基にしたものではなく、他府県から転入してきた人が地元の言葉になじむ中で編み出した省略語に思えます。それも最近の話に思えます。

千里中央をセンチュウと言われ、びっくりしたことがあります。 会社に入ったとき事務の女性、20歳代前半の人に「線虫に行ってきた」と言われて動揺しました。

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[生活]

[言葉]

言葉の意味

採用面接で質問をすると答えが質問とかみ合わない場合があります。 そこで新たに質問したことの解説を行い、再質問します。

それでもかみ合わないときは「そうですか」と返事をして終わることが多いです。

たとえば「あなたは自分の性格は素直だと思いますか? 素直であると判断した場合、素直であると判断した根拠、エピソードを教えてください」と質問した場合です。

『素直』という言葉の意味が質問者と回答者の間でずれている場合などです。

回答者が深読みする場合、素直の反対は『頑固』、『ひねくれている』などイメージが悪いので「素直だと思います」と答える可能性が高くなります。

回答者は『素直』の意味を従順で使いやすい性格と判断し、親や先輩や上司に受けたアドバイスを忠実に守って成功したエピソードを答えたりします。

回答者がさらに深読みをし、素直=単純、あまり考えない性格ととらまえれば話はさらにややこしくなります。

一方、質問者サイドでは教えることに対してそのまま受け入れられるかという意味で質問していたりします。 過去の経験で先輩のアドバイスが納得いかないながらもアドバイス通り忠実に行って成功し、アドバイスの意味を初めて悟ったというエピソードを期待していたりします。

初めから誤解しないように質問の意図=素直の意味を事例を添えて詳細に説明するのもつじつま合わせの方法でしょうが、そもそもつじつまが合わなくてもこの質問で相手が素直か深読みする性格かはわかる場合があります。 質問は採用面接では応募者の性格の一端を知ることが目的ですから個別の質問回答に整合性がなくても目的は達成できます。

採用面接以外で社内の報告・連絡・相談でこのような不整合が起こると、せっかく受けた報告によって認識できていなかった状況を誤った状況として認識することになります。

報告者:当部署の職員数が不足しているときがある。
聞き手:それじゃ普段は職員が余っているのか? 不足しているのか? どちらなのかわからないという事態になります。

報告者が伝えたかったのは最近仕事量に繁忙期の波が出てきたことを言いたかったのかもしれません。 いちいち言葉の意味を確認しあうのも面倒くさいこと、ひと手間惜しんで後で大きな問題になったこともあります。

たまたま意味の取り違えで新しいことがわかる場合もありますが、やはり社内の報告・連絡・相談では意味は正確であってほしいです。

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[生活]

[言葉]

許す

人と話をするときに目的があります。 話す相手は好感を抱いている人も嫌悪感を抱いている人もいます。 私は人の好き嫌いが強いのではと密かに思っていますが、他人に言われることがないのであまり気にしていません。

プライベートとしては嫌悪する人に接しなければよく、ひたすら好感を抱く人とのみ接点を持てばよいことですが、仕事となるとそうは行きません。

会社内で何かを伝えなければならない時に私も人間ですから好感を抱いていない人に何かを伝えるときに言葉がそっけなかったり、棘が有ったりしているようです。 誰にでもいえることだと思います。

なぜ好感をもてないのか、ほとんどが生理的なものです。 晩年の父親(故人)の場合は「こうしなければいけない」とか「こうあるべきだ」ということをよく言いました。 当時私は冬山に入山していましたが、「40歳を過ぎて危険だから止めなさい」といいます。 30歳代なら良いのかといえば危険性はさほど変わりません。 しかし自らは60歳を過ぎてスクーターで長距離の旅行にゆきます。 「危険だから止めたら」というと「大丈夫」という返事です。 愛情の裏返しかもしれませんが自分のことを棚に上げて人のことに「…すべきだ、してはいけない」と言い続ける人でした。

自分が理解できないことは「そんなことは起こるはずがない」とか相手の目を見ずにくどくど言うとか、一度「大事な話は相手の目を見てすべきだ」というと激怒し、何か月も口をききません。 何か決めなければならないことがあればその間決めることができません。

自分では父親の態度に腹を立てていたのですが、自分と相いれない価値観の押し付けにいら立っていたのです。

親子でも価値観は異なるもので、それを押し付ける、本人も押し付けるのが良くないと解っていてあらぬ方を見て高圧的に叱責する、今でいうパワハラのようなものでしょう。

価値観の違いであれば「そういう考えもあるね」と受け流せばよかったのですが、正面切って反論し善悪の問題であるかのように考えた自分の未熟さに今更ながらに嫌気がさします。 父親は大人、自分は子供、社会が変わり自分の方が社会経験を積んでいるのだから合理的な判断をしているはずと思っているので超えられない立場の違いに戸惑いもあったのでしょう。

社内の会話に戻り、自分も経験も積んで立場から話を聞き、話をする場面が多くなってきました。 かつての父親の立場が今の自分の立場とかぶり、『気を付けなければかつてのオヤジと同じになってしまう』と懸念します。

しかし人ですから生理的に嫌うこともあり、嫌う点を超越できればもっと相手に伝わる会話が成り立つ、そのためには相手の嫌う点を許す、もしくは気にしないようにする。 しかし、許す・許さないの問題ではなく、好感を持つか嫌悪感を持つか、善悪ではない自分の価値観の問題につきます。

許すかどうかは善悪の問題、悪いことをすれば処断すれば済むことです。 処断を知友著するのは温情ではなく欺瞞にすぎません。 好悪の問題で処断されたら相手はたまったものではありません。 話すべきは会社で仕事をする上での価値観のすり合わせが多いですから善悪でも好悪でもない話です。

時として組織で働くことに疲れてしまうことがあります。

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[言葉]

大丈夫

日常会話で新しい言葉が増えてゆきます。 外国語由来の言葉や長い言葉を短くした言葉、日本語のニュアンスをあらわすあたしい表現などいろいろあるかと思います。

外国語由来で調剤薬局の業界用語としてドゥー処方というのがあります。 慢性疾患の患者様の処方で前回通りの処方が出た場合、Do処方と呼んでいます。 わかりやすい言葉で『前回同一処方』などより伝わりやすいでしょう。 長いものを短縮するのでびっくりしたのが『千里中央』を『センチュウ』というのがありました。 40年ほど前に聞いて『線虫』と首をかしげたのが印象に残っています。 新しい表現では『KY』は代表的でしょう。 少し相手を侮蔑した表現のように思います。

日本経済新聞1面コラム『春秋』に『大丈夫』というのがありました。 もともと「金銭の誘惑に負けたり、権威に屈しない、志の高い男子」というのが新明解国語辞典の解説だそうです。 このような意味はすでにすたれ、何とかなるよ、ご心配なくというのが一般的使用例と思っていました。

ところが最近はNo thank you. の意味でつかわれることが多く、「・・・・は必要ですか?」、「大丈夫です」の受け答えに使われ、「いいえ結構です」という意味でよく使われます。

個人的には違和感を感じる表現で、採用面接で「何か質問がありますか?」、「大丈夫です」、「何が大丈夫ですか?」と切り返します。 もちろん私でも「質問はありません」という意味は理解しますが、採用面接はいわばオフィシャルの面談でまだスラッグの表現を使われると違和感を感じます。 それ以外の会話はスラッグを排除して受け答えしているわけですから「徹底しろよ」と思ってもうなづける人はたくさんいると思います。

言葉は生まれて市民権を得て、オフィシャルでも使われるようになるわけですから正確な会話を必要とする場面では使わないようにすべきと思います。

もし「おれはそのような既成概念にとらわれず生きてきたし、これからも生きてゆく、その我儘を通しても貢献できる人材と自己評価している」ならすべての表現に自分の言葉を使うべきで、そのように思っている人の会話を漏れ聞くと私などは外国語の話かと思ってしまいます。

言葉は時間とともに洗練されていくもので、KY等は時間の経過とともに消滅する言葉のように思います。 人を蔑み、暗く陰口を言うようなニュアンスを感じるので決して生産的ではありません。 空気が読めないと言われている人の中には正しい主張をする人もいて、それをKYと無視するなら正しいことを言う機会は減り、みんながにこにこと当たり障りのない会話に終始することになるかもしれません。

我々の年代であれば周りの意見に反して自己を主張する人に敬意を払い、それが的外れであれば『唯我独尊』と表現したりします。

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