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人間関係

[人間関係]

直接言えない

会社の代表をしているといろいろな人からいろいろな意見をいただきます。 同じ会議メンバーの批判はおおく、『なぜあの人はこの意見にとらわれているのか?』という質問であれば想像して答えるか、『聞いてみればどうですか?』と言えばよいのですが。

会議メンバーの批判で相手の考えを柔軟にしてほしい、とのリクエスト、それも遠回しに言われる、対象の人に直接それを申し上げるのはさほど苦労はしませんが、目的は申し上げることではなく柔軟になってもらうこと、これは難しいですね。

そんな神がかりなことができるなら会議で苦労することはありません。 以前と違い最近当社の取締役会は全員が自分の意見をはっきり主張し、他人の意見を明確に非難するようになってきました。 以前そんな事は無かったのですが、以前は私がワンマンだったのでしょう。 しかし当時はどうして反対意見が出ないのか、と悩んだものです。 そんなワンマン時代を懐かしく思っても仕方なく、前述のリクエストに応えるべく知恵を絞ります。 考えれば考えるほど答えは明らかになってきます。 要は相互の意見を理解していない、どちらの意見にも別に反対も賛成もしない自分はそれら対立する意見について関心がないというところでしょうか。

だから意見の対立があればそれぞれの言葉でとことん話し合い、間に入らないことがベストのように思われます。 理解されていないのですから当然ですが、会議でそのように開設するとどんどん対立が深まったりします。 やはり私がそれぞれ個別に話をして、相手の頭を柔らかくして落としどころを探る方が時間の節約になります。

人は面倒なもの、面倒な理由のほとんどが他社の意見への理解でしょう。 会議では理解されない前提で説明に工夫が必要です。

工夫と言えば結論を明確に先に言うとか、できる限り結論に及ぶのを避けて遠回しに周辺を詰めるとかよく行われますが、発言には責任が伴いますので聞き手はできるだけ真摯に聞く姿勢をとらねば微妙な問題は技師にかけるだけで人間関係まで損なわれることになります。

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[人間関係]

ネコといぬ

最近ネコが話題になっていて、ネコカフェなどはやっていると聞きます。 私は誤解を顧みずに言えば人をネコか犬に例えて分類してしまいます。

動物の生態学は全く解りませんが、ネコ科の動物は独立性が高く、あまり群れを成して生活する印象がありません。 天王寺区に住んでいるとお寺が多く、野良猫がたくさん住んでいます。 餌をやる人が多いのかお供えを食べているのかお寺の近辺では一定の確率でネコに遭遇します。

私が見る野良猫は子供が多く、たいてい数匹でたむろしています。 いたずら心で脅かしても少し逃げてから知らん顔をしています。 日向で寝ている猫も多く、あまり活動的とは思えません。

一方犬は野犬であれば群れを成し、群れの中で役割も分かれていて統制が取れているように思います。 かつて淀川の堤防を自転車での通勤経路に使っていたことがあります。 残業で遅くなって暗闇を走っていると堤防にいた犬が私に向かって吠えたてたことがあります。 その犬のいた後ろには草原が広がっていてそこから数十匹の犬が湧きだしてきました。 その数十匹の犬が一斉に私に向かってきます。 これは大変な恐怖で、自転車を早く漕いでも遅れることはなく、全力で逃げたことがありました。 数分で犬の群れは追跡をやめて元の草むらに戻ってゆきます。 私はほっと胸をなでおろし、家路につきます。

何度か同じことがあり、同じように逃げましたが、ある時開き直って自転車を止めて犬に向かってゆきました。 そうすると犬の群れはゆっくりと元の草むらに引き上げてゆきます。 まるで私を小馬鹿にしたようなゆっくりした歩みです。

数十党の犬の中にリーダーがいてその指示に従っているとしか思えません。 すべての犬が瞬間に引き上げてゆくのですから完璧に統制が取れています。

人に例えると軍隊のような印象です。 リーダーの存在から彼らの中に役割と序列がある事が判ります。

一方ネコにこのような役割や序列、統制のとれたチームプレーを見たことがありません。 淀川の河川敷で野良猫を見た事は無く、天王寺のお寺の境内で野良犬を見たことはありません。 すみわけと言ってしまえばそれまでですが、このような犬と猫の印象に被る人間の行動も垣間見れます。 序列やリーダーシップを重んじてチームプレーに徹する人は犬タイプ、いつも一人で個人スキルに関心の高い人はネコタイプといったところでしょうか。

実際の野良猫と野良犬は棲み分けができていて、互いにテリトリーを犯すことはしないのかもしれません。 やるとすれば野良犬が野良猫のテリトリーを犯すことが想像されますが、野良犬が野良猫を集団で襲ったり、単独同士の決闘なども目にすることはありません。

一方人間は犬型人間がネコ型人間をいじめの対象にしたりし、非常に強く知恵のあるネコ型人間が犬型人間を排撃したりするのは現実に目にします。

問題なのは人間社会では両方が一緒に生活し、働き、好むと好まざるとにかかわらずチームプレーもします。

もし私が人事担当なら人事データの端に動物マークを付けたりするかもしれません。 文句ばっかり言う職員はよく吠えるタイプの犬マーク、毅然としていて孤高の職員はアメリカンショートヘアのネコマーク、社内をうろうろして他人の仕事の邪魔をする職員はおさるのマークといったところでしょうか?

そんなことをしていてバレた日には労基署に通報されて改善勧告を受けるかもしれません。 しかし、性格診断テストの結果が人事データに打ち込まれていたらそれを眺めているとネコや犬に見えてくるのではないかと思います。

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[人間関係]

憎しみ

腹が立って仕方がないことがあります。 その人が極めつけの身勝手で、知る人ぞ知る嫌われ者で人間関係が避けられない場合があります。 例えば身勝手な身内とかです。

昔なら村八分、最近ならネグレクトなどの問題になりかねません。 身勝手の程度によりますが、善悪の問題であるなら付き合わない選択もあります。

私はこのような例では付き合わないようにします。 最初は断るべきは断り、関係における不満はなるべく丁重に述べます。 それが続けば面談を断ります。

会って話をするぐらいどうという事は無いのですが、やはり不愉快です。 不愉快が重なれば、そして自分の時間を奪われ、金銭的な損失が重なれば全く無視することになります。 たいていはそれで関係が切れます。 それが親子など濃い関係ではうまく行かない事があるかも知れません。

一番厄介なのは相手が善意に満ちていて善悪的に問題がなく、極論すれば価値観のかなりの部分も寄り添えるにもかかわらず話をしたくない人がいることです。 例えば上司と部下、取引先、同僚などです。 できるだけ避けたいと思っても面談の必要性は高い場合があります。 事実はそんなに頻度は高くなくても合わない人と思えば一時間の面談が一日の苦労にも感じます。

ここの気遣いをうまくやらなければ善悪・損得の問題ではないので憎しみが募ることになります。 これは不幸な事、相手が悪い、でも自分が悪いと腹をくくる場合でも心の重荷になってしまいます。

たまにそのような人と瞬間的に意気投合して人間関係が改善することがあります。 多くの人も経験があるでしょう。 初めに合わないと思った先入観がついて回って、それがふと消えたとき別に嫌でも何でもない人間関係が成り立つ時です。 先入観はのちの情報でどんどん評価を変えられる心の柔軟さが大切なのでしょう。

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[人間関係]

人間関係

 社会生活を営む上で人間関係の問題は避けて通れません。 私も人並みに人間関係で悩み苦しむことが多くあります。

 たまたま先日ある本を読んでいて人間関係の要となる言葉に出会いました。 『信頼とは善良な動機から始まる』というものです。 誰の言葉かひかえていないので判りませんが、この言葉に出会った時生るほどと思いました。 もちろん人間関係の問題のすべてが信頼感に根ざしているわけではありません。

 人間関係は大きくは善悪の問題と好悪の問題(価値観の違いと言えるでしょうか?)に大別しています。 仕事での人間関係に限定すれば殆ど善悪の問題として対処が必要でしょう。 人事考課や仕入れ先の選定を好き嫌いでされたらたまりませんし、 例示した言葉通り信頼感は築けません。

 しかし解っていても好き嫌いはありますし、 結果に反映しているでしょう。 ある仕入れ先は担当者が来たとき『この担当者なら取引してもよい』とひらめき、現在主要取引先になっています。 その時の担当者は出世し、やがては当社の担当を外れることになるでしょう。 私が今後も仕入れ先の決定権を持つなら後任の担当者が気に入らなければ仕入れは大幅に縮小されることになります。 その仕入先との取引により、当社は大きく展開することができました。 別の仕入先で同じ結果になったかわかりませんし、担当者が別の方であれば全く取引することはなかったかもしれません。 つまりお互い気に入ったおかげで相互の利益を作り上げることができたわけです。

 同じような話は大企業の社長の話にも出てきて、そんな神がかりな人間関係が世の中にあるものだといつも不思議に思います。

 社員の採用でもそのようなひらめきを感じる人がいて、入社が叶うように話しかけ、入社後活躍されている方もいます。 活躍したのは本人の努力の賜物なのですが、私はことあるごとに話を聞いたり話したり励ましたりします。 これを依怙贔屓と言えばそうなのでしょうが、こちらがそう思わない人に同じことをしたら疎ましく思われるだけです。

 私はひいきにしている人の仕事がうまくゆくように心から思って話を聞いたり話したりします。 つまり最初に紹介した『善良な動機』 に基づいて対応し、お互いに信頼感が生まれます。

 では絶対的な『善良 』はあるのでしょうか? 前出の例では依怙贔屓されているから本人が頑張っただけではないか、それのどこが善良なのか? 人事考課でその人に甘く評価したわけではなく、本人は人並み以上に努力し成果を生んだ、それのどこがいけないのか、そもそも人は相性があり、私の時間や心に制限ある中ですべての人に平等に対処などできるわけがなく、私が励ましても成果を生まない人に励ましの言葉をかけて本人が疎ましく思い、腐ってしまうなら言わない方がよいに決まっているではないか、と言い合いになります。

 正しいことや善良なことに絶対性を求めても意味が無いように思えてなりません。  結果的に会社に貢献できることを私の心の善良性から行っている、別に自分に都合の良いシンパシィを得ようとしているような善良でない意思は持っていません。 

 何を行っても反感はあり、反感を抱いた人たちにも毛嫌いするわけでもなく誠実に対処してエゴイスティックな指針がないことを示し続けなければ信頼は生まれません。 単純に私の行為に反感を持つ人は日々のあいさつの仕方でも感じようがにじみ出てきますが、こちらからは感情で返すことはしないようにしています。

 何か自分の考えを表すことはここまで気を使わないといけないならそもそも気に入った職員に声などかけなければよいのですが、それもこれも人間であるから出てくる話で、避けて通れないのでしょう。 

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[人間関係]

人間関係

 あけましておめでとうございます。 昨年末に900を超えて今年は1000に迫りたいと思いますので訪問してください。

 我々の年代は年始に今年は〇〇すると年間計画を立てたりしていましたが、立てた方はおられますか? 私の今年の計画は昨年に引き続きというよりかここ数年変わっていません。 同じ計画を立て始めた時期より10年ほど前、ちょうど今の会社に来た頃ですが私がまだ40歳代、同年代の人に比べると大変元気で体力・気力ともに 充実していました。 しかし30歳代に比べると体力の低下は著しいものがありました。

 しかし仕事中心の生活をしている中で体力の低下を気にすることは稀でした。 50歳代に入って運動不足から体重が80㎏に近づき、無呼吸症候群が出てきて血液検査でも要治療判定となりました。 食事量は半分に減らしましたが元の体重に戻せません。 朝起きて自転車で長距離を走ったり散歩したりしましたが対して効果がありません。 夜の付き合いは徹底して減らし、規則正しい生活パターンにしました。 最近数年は筋力トレーニングも継続して行うようにして食事量もさらに減らしました。 もう水を飲んでも息をしても体重が増えるのではと思うほどです。

 数年前からは自転車も乗るのを減らしてなるべく歩き、毎日1万歩を目指しています。  今更ハードなスポーツや醜くないスタイルに体を作り変えるのは無理としても健康でいること、定期健康診断で検査数値の改善を図ること、一万歩を歩いても疲れを感じない程度の体力を養うこと、体重を65kgまで落とすこと、そのためトレーニングメニューを作り、出来た項目に丸を付けています。

 前置きが長くなりましたがこんなことを考えていると夜のお付き合いは全くダメになり、毎晩9時に寝て5時に起きる生活が定着しています。 

 こんな生活をしていると気持ちが内向きになってもともと狭い付き合いが殆ど無くなってしまいます。 そこで今年はデイタイムの人間関係をそれも今まで付き合わなかった人間関係を築いてゆこうというのが今年の計画です。 この年になると新たな人間関係を作るのが面倒くさくなりますが、まめになろうということでしょうか。

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事実と考え

私は細かい事が気になる方です。 誰でもそうかもしれませんが、気になる細かなことは自分の価値観に触れることです。 私の場合、なかなか譲れない価値観として節約があります。 子供のころから節約については厳しく躾けられたので沁み付いていると思います。

衣類のバーゲンでシャツを千円で買いましたが、ばねホックが一つとれていました。 なくても大丈夫だろうと思いそのまま買ったのですが、実際に着てみるとホックが一つないことが見た目に不具合です。 手芸店で同じホックを買って自分で取り付けました。 取り付けは簡単で専用の台にホックを乗せ金槌でたたくと取り付けが完了です。

簡単に修理できたのですが、部品のホックは660円しました。 併せて1660円でシャツが買えたわけですが、シャツが千円に対してホックが660円、どちらも出せる金額なのですが釈然としません。

気に入った服はよく着るので、そのシャツが気に入ればそれでよしと思えばよいのですが思いきれない自分がいます。

次に傘の骨の先の留め具が一つ外れてしまい、部品をネットで検索して購入、こちらは300円ほどの部品です。 傘の値段に比べて部品代に違和感はなく、修理も簡単にできたのでよかったと思っています。

何かがわからない、という場合に単純な事であればたいていネット検索で事足りますし、正しい事が判ります。

例えば私は時代劇が好きですが、池波正太郎の鬼平犯科帳のTVドラマの主演者がわからないときはネットで簡単に中村吉右衛門氏の名前を見つけ出すことができます。 最近カテゴリー専門サイトで事実でない事が多く書かれていてサイト運営者が謝罪とサイト閉鎖をしたことが新聞に出ていました。

ニンジンを食べ続けたらがんが治った記事を目にすると信じる人も出てくるでしょう。 以前みのもんたがTVで納豆が〇〇に良いと発言したら次の日に食品店から納豆がなくなっていたという話がありましたが、それに似て無責任な発言は得てして暴走します。

百歩譲って、ネット上の記載のほとんどが事実としてネット検索を続けるほど人は日常で事実を必要とするのでしょうか? 私は否です。 ほとんどネット検索を行いません。 何かを考えるときに、先程の時代劇の主役の名がわからなくてもそのまま済ませてしまいます。

私が日常生活で必要とすることは最初に書いた価値観の修正、より自分に適した価値観、その価値観に沿った行動指針や会社の戦略などです。

会社で経営方針を決めるとき、自分の価値観がベースになります。 節約できることはなるべく節約する、より少ないコストでより大きな利益を得る方法、より大きなリスクを取ることで標準以上の利益を得る方法、常に考えます。

新聞にはこのような悩みにスパッと解決できるかのようなタイトルの本が広告されています。 成功する人は東京、大阪間の移動に飛行機を使うなど、事実そうかもしれません。 しかし飛行機で移動すると成功するかは別問題、そんなに単純ではないと思いますし、そのタイトルの本の中身もだから成功する理由を解説しているでしょう。

東京、大阪を必ず車で移動する人、新幹線を利用する人、バスを利用する人それぞれで成功している人はたくさんおられると思います。 考えすら事実にしてしまう安直さに疑問を感じます。

ネット検索をしないのはその裏返しですが、私がネット検索しても考える癖、考えに沿って行動し成果を上げる行動パターンは変わらないでしょうが、これからやろうとすることに関連する事実や固有名詞が数多く登場すると道路標識だらけの道でかえって道に迷う愚を犯しかねないように思います。

 

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相手の立場

『相手の立場に立って  ・・・・』、この言葉は仲裁などによく使われます。 争いがある中でそれを収めるために仲裁があるのですから、落としどころを見つけるためには相手の立場をおもんばかる必要があります。 つまりは妥協することですが、単純に妥協するのではなく『あなたの主張はこうですね、理解しているからここで折り合いをつけませんか』ということです。

外交交渉などでは理解のしようがない行き違いが話題になります。 経済の話なのに感情論が優先されていたりして、いったい何を決めたいのかわからない報道がされます。 過去の経緯、文化・宗教観の違いなどは私のように大阪でずっと暮らしてきた人間には理解しがたいことだらけです。

これが個人間の問題、同じ会社の人間、しかも同じ大阪出身者同士の利害調整でも大いに手間取ります。 相手の損得、メンツ、希望など理解しているうえで『〇〇でしょう?』とまとめにかかると『そうなんだけど・・・』と煮え切らない返事が返ってきます。

人はそれほど合理的に判断するわけではなく、長い過去に影響を受けていたり、微妙な価値観であったり、様々なことによって判断が揺らぎます。 このように考えると相手の立場に等立てません。 それでもできるだけ合理的に相手の立場を慮って歩み寄ろうとします。

相手が高齢で少し認知症になっていたり、非常に感情的になっていたりするととにかく話を聞くしかありません。 そして相手の意見に共感する、そして沈黙、また話を聞く、この繰り返しになってきます。

クレーム対応で弁護士と話をしたときに『とにかく相手の話を聞いてください』と言われ、『とれぐらい?』、『二時間』、『それでだめなら?』、『もう二時間・・・』、『二時間の根拠は?』、『それくらい文句を言うと疲れるから』というやり取りでした。

実際の場面で二時間耐えて忍んで話を聞いて、相手が矛を収めてくれた場合とそうでない場合がありました。 そうでない場合はそのクレームをお金にしようとする場合でした。 何らかの不手際があった場合、慰謝料など金銭による解決はある話ですが、程度から言えば法外なケースが多いです。

認知症の高齢者の場合、話したことすら忘れてしまうので繰り返して聞くことになり、本人は何度も話していることで思っていたことを口に出してそれが確信に変わることがあります。 折り合いがつくことはありません。

これが身内だと本当に嫌になります。

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素直すぎる人

 私の趣味の一つ、オートバイでのツーリング仲間に55歳の男性ライダーがいます。 友人の多い人ですが、人のことを悪く言わないことを徹底していて、いつもニコニコしている事かと思っています。 世間の人間が皆彼(O君)のようであれば諍いもなく、秩序も保たれてよい社会になるのかと想像するときがあります。

 そのO君が失職し、人間不信に陥りました。 なぜにと聞くと 人間関係のもつれとのこと、O君の評価と矛盾する理由です。 友人と起業したのですが、その友人とうまくゆかず起業した会社から離脱しました。 友人との起業がうまくゆかない話はよく聞きますが、情によるつながりを仕事に持ち込むのは難しいのではと想像します。

 O君との付き合いは長いのですが、ツーリングクラブでも人間関係のもつれからクラブをやめたり、思い起こせばO君は人間関係のもつれがあります。

 このことを好意的に評価すればO君の人柄の良さに付け込む周囲の人の思惑が浮かび、遅れてそれに気づいたO君が気を悪くしてもつれてしまうパターンです。

 好意的でなく評価すれば、お人よしも時にもつれを誘発するということでしょうか? 彼が長年争うことなく付き合っているのはお人良しに付け込まない、個人主義の人のようです。

 O君と付き合っていると古典落語に出てくる長屋のくまさん、はっつあん、家主の会話を思い浮かべてしまいます。 古典落語は世代を超えて受け継がれた人間模様でちょっと面白い話、だからO君のような登場人物が出てきてお人良しで素直すぎる人が笑いを誘う事件を引き起こします。 それが殺人や大金の詐欺事件をテーマにしないのは、庶民芸能としてきな臭さを嫌っているからでしょう。 そもそも悲惨な話を聞きたいと思わないでしょう。

 古典落語を例に出したのはO君のような素直すぎる人が現代社会で生きていきにくいのが多様性を原因とする解釈が多いように思うからです。 古典落語のネタは江戸時代、現代社会と比べ多様性という点でシンプルだったと思います。 多様であろうがなかろうがO君のような素直すぎる人柄は生きていきにくいもので、人間関係の普遍性に思えます。
 

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生き心地Ⅱ

岡 壇氏著『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある』というタイトルの本の感想後篇です。

本書の中でなにか当社の運営と似ているところはないか、と言う視点で読みました。 『生き心地の良い町』が『働きたい会社№1』という当社のビジョン実現の参考になるのではと考えたのです。

前回紹介したように書の研究フィールドは徳島県海陽町(海部)ですが、歴史上大量の移住者が各地から当地に流入しています。 短期間に大量の移住がなされると地域の地縁的な文化が崩れます。

一方当社は最近ですがここ数年職員の増加率が高く、職員の3割が1年間に増加したりしています。 もちろんその前後の年も増加する一方で古い職員が止めたりしています。 年功序列の風土は弱く、先輩への敬意は比較的弱い一方で後輩の遠慮も弱い会社になっています。

海陽町では他人への関心の強さがあると記されています。 著者が研究のために海陽町の宿で宿泊し、聞き取りで出かけると皆著者が何のためにいるのか知っていて、機会があれば話しかけてこられるようですが、考えが違ってもそのことで関心を示すわけではありません。

この部分では当社で新人が入社してポータルサイトで公表されても特に皆が関心を持つわけではなさそうです。 職種が違えばさらに関心が薄く、営業職のものが薬剤師の新人に関心を示すことはありません。

海陽町で特徴的な風土で、著者はリーダーの選出をあげています。 よそ者が流入してきて問題を起こさないよう監視するのが一般的ではあるが、海陽町では監視するより関心を持つ、そしてリーダーを選ぶときに家柄などよりリーダーとして優れているか、その1点でリーダーを選出する傾向が強いそうです。 多くのよそ者がいる小さな村で古い家柄やお金持ちをリーダーにするよりたとえよそ者であっても問題解決能力が高い人をリーダーに選ぶ傾向があり、風土の維持に貢献しているそうです。

企業ではリーダー選出に関して当たり前のように思われるかもしれませんが、過去の実績で高齢のリーダーを温存して問題となった企業、就職人気ランキングが常に上位にもかかわらず実態は派閥人事が行われている企業、リーダー選出は企業において海陽町ほど上手くいっていない事例が多いと思います。

海陽町の風土して隠し事が無い事も挙げられていましたが、企業においても風通しの良さはよく話題になります。 当社は個人情報にかかわるもの、未決定の経営方針や戦略は秘密扱いにしますが、財務データなどは開示しています。 社員の関心は経営者である私より部門の長に対して強いように思われ、指示を出す人が最高責任者より吸引力が強いようです。

ほかにも類似点は多く見られましたが、地域コミュニティと企業を全く同一に比較はできません。 しかし人の問題と考えると本書は働く環境を快適にするうえで多くの示唆を含んでいるように思えます。

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人として

私はプライベートでおつきあいしている人は大変少ない方だと思います。 営業職の採用面接で親密に付き合っている人の人数を聞くことがあります。 『月に一回程度は連絡を取る人は何人ぐらいですか?』と聞いて30人と答えが返ってくると驚きです。

私の場合はせいぜい5人程度です。

アドラーの解説書がよく売れているそうです。 人の問題のすべては人間関係にあるという考え方で分析をした人のようですが、30人の人と親しく付き合えるとなると大変こなれた人に思えます。

私の親しい人の数が少ないのは私の性格に問題があって、多くの人と付き合う事が出来ないことにあります。 大変多くの人と親しくお付き合いしている人は結局深い付き合いができない人と思っていました。 浅く広く付き合う人の事ですが、親密な付き合いができるのは相手の人に興味を持ち続ける事が出来るからと私はずっと思っていました。

興味のある人と出会うとその人の事を深く知りたくて面談を繰り返します。 そして質問を続けます。 何が好きか、どういう価値観を持っているのか、宗教や政治、異性への関心、家族関係、一渡り質問を繰り返し、相手がどのような人であるか知りえたと思ったらその人に対する関心が失せてしまい、質問しなくなり、やがては会うこともなくなります。

学生だった頃、質問が尽きてもその人への関心が無くならない男性の友人が出来ました。 いろいろ話をして、どのような人間であるか理解したつもりになって新たな質問がなくなっても、また会ってわかっている答えを聞きたいと思う人でした。 質問するとほぼ想定した答えが返ってきますがその人の口からその答えを聞くと新鮮な意見に聞こえたものでした。

私がプライベートで付き合う人が少ないのはこのような理由で、関心を持って一定期間付き合ったことのある人は多い方だと思います。

人は何故友人を持つのか、一人ぼっちは淋しいから、助けてほしいから、同じ趣味に興じるため、いろいろあるでしょうが、私は自分の考えを整理し人として成長することに価値を見出しています。 問答を繰り返し、相手の答えにそう言う事かと気づき、自分の考えを改めていくことは人間関係の醍醐味でしょう。

親しい友人の一人に私から見て大変身勝手な人がいます。 私は何かを言うと私の無神経な一言を厳しく追及してきます。 よくもそこまで言えるものだと感心しますが、ご自身の発言はあまり立派とは言えません。

あるときその人の気に障ることを言ってしまい、大変非難されました。 『そのようなことを言うのは普段からそのように考えているからだ』、言われてみればそうかもしれず、『そのように考えている』考えは脚色され、私はまともな人間ではないと烙印を押されます。

口に出して自分が感じたことを言ってしまうことは確かに自分の意志でコントロールでき、相手にとって不愉快なことは思っても言わないようにできます。 もちろんそれなりに注意力が必要ですが。 しかし、『思ってはいけない』と言われても少なくとも頭に思い描くことまではコントロールできません。

鮮烈な価値観を自ら会得した人、例えばある種の宗教に帰依し、その教義を深く取り込んだ人は少なくともその教義に反することは心の中で思い浮かぶことすら無くなるかもしれません。

誰かに憎しみを抱くことは好ましいことではありません。 なぜならそれは善悪の問題ではなく感情であり、それに支配された行動は生産的ではありません。 私はどちらかというと執念深い方、裏切られれば許す事が出来ない性質です。

信頼していた人に裏切られ、本人は些細な事と思っているようですが、私にとっては生き死にの問題だったことがありました。 そのことを忘れようとしても忘れられず、忘れようとすればするほど自分が傷ついてしまい、一切会わないようにしました。

復讐を考えたことはなく、憎しみの理由を説明する気もなく、つまりは蟠りを消すには忘れるしかありません。 その記憶が言葉となってしまうとむなしく、後味の悪いものです。

例示した友人はそのようなときにすかさず私の愚かさをなじります。 人の苦痛も解らずよくも平気で言えたものだと思っても言っていることは正しく、愚かであることを愚かと言っているのです。 その友人が尊敬する偉大な思想家であったなら素直に憎しみを消し去ることが出来たのかもしれません。

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