監査役BLOG

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人間関係

[人間関係]

営業

営業職は自らの成果が数値で表れます。 ラッキー・アンラッキーもありますが、長期の累計でみればその人の営業力はかなり正確に表れていると思います。

営業会議に出席し、すでに現場の事は解らないので雰囲気を感じているのですが、配布される成績一覧表を見ていると上位者と下位者で倍以上の開きがあります。

管理職は一人一人の営業にもっと訪問件数を増やすように、とか話し方とかいろいろアドバイスをします。 言われた方は聞き流して営業スタイルを変えず相変わらずの成績でいたり、数か月後もしくは一年後に劇的に成績が上がったりいろいろです。

営業のハウツウ本を読んでも大体同じような指摘が書かれています。 したがって経験上それらのアドバイスに従って自らの行動を変えることが売上向上の方法であることは確かです。 少なくとも私のように営業経験一年のものが思いつくアドバイスよりずっと効果的であるように思います。

私がどのような方法で営業を行っていたか、今思い起こすと飛び込み訪問して話を聞いてくれた人の感性が自分に会えば自然と取引が始まり、その後取引が拡大します。 もちろんそのようにならなかった取引先も多くあるのですが、15年たった現在でも当時開発した取引先との取引が続いていて、自分はそれなりの営業であったと思うことがありました。 しかしそれは誤解で、私が営業をしていたころは介護保険法が施行された高齢者介護の創生期で、普通に営業に行けばだれでも取引ができた時代で、私が営業として優れていたわけではありません。 その後取引が拡大したのは後任の人が努力したわけで、私の貢献と何ら関係がありません。

その後、私は仕入先の選定が主な仕事になり、営業される立場に立ちました。 いろいろな人に会いましたが、当社と同様同じ商品を同じような価格で販売される仕入れでは当然ながら価格の安い方を選びました。 調剤用の薬剤の仕入れでは当時当社のような小規模薬局では珍しい入札方式を取り入れ、仕入れコストを大幅に下げました。

介護用品の仕入れではかつて取引していて、その後取引を私が止めた会社の担当がやってきたときに『この人なら取引したい』と思い、取引を開始して現在一番の仕入れ先になっています。 思い返せば自分の好き嫌いで取引先を決めていた気がします。 結果は有利な取引条件になり、当社の介護事業は大きく展開しました。

会社が大きくなるといろいろな人が営業に来られます。 コピー機、証券会社、銀行、たまにそれらの人に会いますが、関心のもてる人はほとんどおらず、何か新たな取引先を探すときは知人に紹介してもらうことにしています。 もちろんその場合も取引をするか面談はするし、判断基準は自分が気に入るかどうかです。

私の趣味の一つに小説を読むことがあります。 小説のテーマはいろいろですが、ほとんどの小説は登場人物の価値観がテーマで、価値観が合う人が何かとてつもないことを成し遂げる展開がこのタイプの小説の面白みでしょう。 そうでなければ値段の折り合いか、質の優劣だけで決めればよいことです。

私は取引開始の条件として関心が持てる、持ち続ける事が出来るかどうかを判断根拠にしています。 当社の営業職の人も人間に関心をもち、他人に関心をもたれる事が営業で成功の秘訣だと思います。 それを言葉で言ってしまえばコミュニケーション力や空気感を読むなどという表現になるのかもしれません。

さらに言えば万人に関心を持つことも持たれることもありません。 もしかなりの割合で他人に関心をもたれるのであれば政治家になればよく、逆に関心を持つなら小説家をお勧めします。

 

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[人間関係]

会話

毎日誰かと会話して気付いたことですが、話す内容、言い回し、結論を先に言うか後に言うか、とかが人によって違うし、私の方も人によって話の切り出し方がパターン化されていることに改めて気付きました。

ある管理職の人はとりあえず当たり障りのないことをはじめに言います。 今日は寒いですね!とかです。

その人は本当に当たり障りのないことをいろいろ言い続け、こちらもそれぞれに適当に返事し、五分もしゃべると別れます。

そしてしばらくして、『彼との会話はいったいなんだったのか?』と不思議な気持ちになります。

全くの第三者であればそのようであるべきだし、重たい会話をされても対応に困りますが、同じ会社の管理職の人で、勤務時間中ですから当然業務にかかわることになります。 そしてその会話のかなりの部分は業務にかかわることで、しかも重要な事を含んでいることが多いです。

彼の発言は『誰々はこう思っている』とか『これこれは上手くいっている』で、だから決めなくてはならないことはこうすればよいと考えます。 考えただけなのか、何も決まっていないのか、と思ってしまい会話に関心を失い、聞いた内容を忘れてしまいます。

しばらくして、『あの件はどうなったのか?』と質問すると、『この前話した通り、これこれです』と返され、以前そんな話を聞いたのか?となります。

明確に結論を先に話す、決めた、会った、こうであった、等と言えば記憶に残るのですが、周辺の話をされると記憶に残りません。

以前はそのような場合に『結論はどうなんだ?』と質問し、それが詰めているように聞こえて、事実は詰めているのですが、非難や反対しているようにとられ、ソフトに聞くようにした結果、キーワード無き重要事項の伝達は不調に終わってしまいます。

私の意図にかかわらず、周囲の人たちは私に気を使っている、もしくは恐れているのかもしれません。 私は業務上のやり取りは余計なことは言わずに端的に伝達することが正確であると思っています。

もちろん仕事の決定であっても確信のある決定やほかに選択肢がない決定もあり、そのニュアンスを伝えるために人は言葉を飾り、濁します。 仕事のコミュニケーションは結論がすべて、ニュアンスで行動や意思決定は出来ません。 そう信じている自分が味気なく思います。 ある管理職はコミュニケーションについて近い考えをもっていて、私との会話はまるで軍隊の報告のようにそぎ落とされた会話になっていて、誤解や伝達不良はあまり起こりません。

前出の周辺事項を説明する人の人間関係は広く、結局彼の話し方の方がより多くの人とコミュニケーションを図るうえで効果的なのかと思います。 関係の薄い人、得体のしれない人に結論ありきで話をするのはリスクがあります。 そのような人と話すうえで結論ありきの関係性はおそらく築けていないでしょう。

人は不器用で、丁寧にものを言う人は喧嘩をしていても丁寧に言うでしょうし、言葉の荒い人は接客でも荒い言葉で話すでしょう。 どちらも相手を知らなければびっくりしてしまいます。 もちろん器用に言葉をもてあそぶ人より信用できそうな気がしますが。

私も不器用な一人として、初対面でも意見を求められれば明確に言ってしまい、誤解されたりします。 たとえ正しい評価であっても言わないほうが良いことは相手は誰であっても言わないように心がけ、相手の立場に立って相手が建設的に私の言葉を受け入れるのであれば言葉を選んで話をするようにしています。

この歳になって何を今更ですが、会話のスタイルを変えるのはなかなか辛いものです。 数年続けていて、少しづつ板についてきた話し方、先ほどの軍隊会話が通じる管理職は『何があったのか、なぜ変わったのか』訝っていたようです。

話し方だけでなく、先ほどの例のように相手の立場に立って良いことかどうか考える癖や、相手を悪く言わない、考えない癖はなかなか身に付きません。 しゃべるだけなら気を付けていれば何とかなるのですが。

若い時、そのようなことを直すのに『ふりをする』ことを教えてくれた人がいます。 サラリーマンのふりをする、善良な人のふりをする、仕事ができる人のふりをする、ふりをしているうちにそのようになるというものです。

ただし、ふりだけで考え方まで変えるのは至難の業で、私は自分の目指す考え方と異なる行動や発言をがそれに合致しないことを鉛筆で紙に書き、修正しようとしています。 これは反省文を書いているようなものですが、目的は反省にあるのではなく、目指す自分になるための行為です。

あまり急激に自分を変えようとすると自分の中にAとBがいて、整理がつかなくなったりします。 自分の人格は生まれいてから長い年月をかけて形成されたものですからすぐに変わる事、成長することはありません。 しかし疑問をもち、考え正してゆかなければそこで自分が固まってしまいます。

今かつての自分の考え方や行動を振り返って同時のピュアで粗野な自分に戻りたいと思うことはありません。 それほど人は未完成なのです。

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[人間関係]

職場の人間関係

会社で人間関係のトラブルが頻発します。 大抵のトラブルは理由を聞くと些細なこと、しかし当人にとっては耐えられないことのようです。 もちろん私にもそのようなトラブルは経験があり、いい加減にしろとは言いにくいことです。

ドラッカーは人間関係に感知する必要はなく、自らの仕事をきちっと行えばトラブルは発生しないと言っています。

ある女性職員とこのことを話していて、ドラッカーなど読まない人ですが、女性の多い職場では仕事のちょっとした手抜きがあると周囲の人が見ていて、それがもとで人間関係のトラブルに発展するそうです。 まさにドラッカー先生のおっしゃる通りで、別にそんなにたいそうな見識ではなく、皆が感じている事のようです。 残念ながら私の場合、そうとも言い切れない経験をしたことはありますが。

しかし仕事のやり方を巡って人間関係が損なわれるケースは圧倒的に多いとは理解できます。 ある職員は始業時間の一分前に会社にやってきます。 正社員です。 電車が遅れるとそれが理由で平気で遅刻してきます。 私の会社勤めの時代ではありえないことです。 もちろん、そのことは就業規則違反ではありません。

しかし余裕をもって出勤している人からすれば身勝手に映るでしょう。 それが5分前なら許されるのか、いやいやせめて10分前には来るべきだ、という議論に発展してゆきます。

全く持って生産的ではなく、常識というか良識というか許容範囲は決まると思います。 しかし1分前に来る人は何が悪いのか理解できないようです。 勤務時間中に私語に興じる事もあるでしょう。 それは就業規則違反、ならばたとえわずかな私語であっても罰せられるべきというと会社の中はぎすぎすしてきます。

いつも会議に遅刻する人がいて、本気で何度も注意しました。 そもそも時間の観念が乏しく、自分の仕事のけりをつけてから来るという言い訳をいつもします。 会議に遅れないように予想時間より早く仕事を始めればよいと思うのですが、本人はそのような注意に耳を貸しません。 遅刻はどうでもよいことという価値観なのです。

だから遅刻は繰り返されます。 1分でも遅刻すると会議に参加させないというのはどうか、猫にお手を教えるような話です。 そんなことまで感がる自分が情けなくなります。

会議をして議事録を作成し、読んでもらってハンコを押して帰してくれ、と指示をしても議事録は返ってきません。 議事録を提出しろと指示を出すと一年分の議事録が出てきます。 こちらも議事録の返却を三か月遅れたら会社を首にする就業規則に変えられないかと考えたりします。

これも猫にお手を教えるようなもの、この記事を読んだ人は当社の採用応募を再考するかもしれませんね。

しかし誰も悪意はなく、ただ継続して忘れてしまうのです。 もちろんそのような事ばかりがきちっとできて、肝心の重要な議題が真面目に審議されないほうが問題ですが、それはみんなきちっと議論します。

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[人間関係]

自分を変えること、他人を変えること

『他人と過去は変えられない』と言われています。 ならば自分は自分で変えられるか、私は変えられると思います。 何のために変えるのか、より望む自分の姿、理想を追求するがゆえにです。

何も考えない人がいて、友人もいず、仕事も上手く行かない、今のまま生きていても生き甲斐を感じることもないでしょう。 それでもその人は今のまま生きていて、ふと『これてよいのか』と思うことになります。

人との関わり合いが全く無ければそのようなことを感じることは少ないでしょうが、人との関わり合いの無い生き方は稀でしょう。 ドラマを見ても幸せな人のシーンは出てきます。 喜びのシーンもありまかす。

そもそも何が幸せで何が喜びで何か悲しみや苦しみで、寂しさであるか考えなくても感じることがあると思います。 その感性を否定して生きるには社会は複雑です。

私は自分の理想像がこの歳になっても明確に描けません。 だれだれのような生き方を目指すとか、何々を成し遂げて金持ちになったり尊敬されたりというのは強く思いません。 お金は嫌いではないし、敬意を払われて悪い気はしませんがそれを目指すことに抵抗があります。

経営の仕事をしているので会社経営をうまく行いたいというのは強くあります。 そのために行うべきことを考え、何年もノートに書きこんでいます。

もっと社会に貢献する方法とか経営を安定させ、職員の皆さんが幸せになるすべを考えます。 自分がこのようになりたいと考えが及ぶことは少なく、このように会社を運営してゆくうえで自分はどうあるべきか、ということは考えてノートに纏めます。 たとえば会社の組織編制に違和感を感じた時は組織運営の本を読み、異業種交流会で他社の社長がどう考えているか聞き出したりです。

つまりは見ているのは自分ではなく、自分を通して運営する会社を見ます。 別に機械があるわけではなく、会社を見るということはその職員と接することになります。 「この人はこのように考えれば仕事にやりがいを感じるのに」とか見えてきて、ついそのことを話したくなります。 しかし他人と過去は変えられないわけですから、話してもその人にしたら大きなお世話になります。

他人は変えられなくても職員の方と話すことを否定しない人が多くいます。 「誰々さんは最近仕事で悩んでいます。 彼の話を聞いてもらえますか?」と店長に言われれば聞きます。 しかし大抵は意味の無い会話に終わっています。 その人の心の中までわかりませんが、表面上は変化がなかったり、その人の個人成績が大幅に上がった場合もありますがその人が基本的なところで幸せ感が向上したり、自らの理想像を描いて成長して行ったりはしていません。

自分がノートに何十年も悩みや生き方を書いて少しずつ自分を変えてきたことを考えれば問題のある人も生きてきた年月、自分の考えをノートに書いてきたかは別にして考えてきています。 自分の生き方について全く考えない人は少なくともうちの会社にはいないと思います。

よく誰々の言葉に出会って自分の生き方が変わったという話があります。(もちろんその人にとって良い方向に変わったのですが) 私も多くの書籍や他人との会話から影響を受けます。

最近もゴルフに誘われ、その人の車に乗せてもらって話をしていてその人の話とその人の実際の行いに一貫性を感じ、納得したことがあります。 宗教の排他性についての話題ですが、その人は交友関係が広く、ゴルフでも思わぬ人とプレーしています。 しかし好き嫌いは強く持っておられ、嫌いな人とは付き合いませんが非難することもなく、つまりは善悪と好き嫌いは厳格に区別しておられるようで、その人の今までの行動や発言が納得できました。

人が他人から影響を受けるのは僅かの言葉と日々の行動、合わせて感じた時に『なるほど、』ということになるのでしょう。 他人の行動を見ているだけではだめで『なぜそうするのか』に納得のいく言葉も必要になると思います。

誰もが植物の種をまけば芽が出ることは知っており、生物の知識はそのメカニズムを解説します。 しかし実際に目にした発芽は感動的なもので、そのメカニズムを熟知して日々植物の世話をし、きれいな花を咲かせている人はその花の意味を語るにふさわしい人になるでしょう。

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[人間関係]

[会社運営]

組織と人

当社は従業員がやっと100人を超えたところですが、事業を行う拠点は8箇所に分散しています。 一番人数の多いところは25人ほど、一番少ないところは5人、それぞれに責任者がいて組織をまとめています。

うまく運営されている事業所は組織の長のマネジメント能力が高く、まとまっていないところは逆といえるかもしれません。

もちろんマネジメントの優劣はもちろんの事、そこの構成メンバーに問題のある人がいればまとまりはさらに悪くなります。

店舗などお客様の出入りが多いところは組織人として問題のある人もそれなりに働いています。 衆人監視の行き届かないところは見えないところでさぼったり会社批判したり、問題行動を起こします。

そのような問題のある人がなぜ会社を辞めないのか不思議に思えます。 そもそも不満があるのなら不満の無い職場に転職すればよいわけで、どこにいても不満だらけなら自分の価値観に問題があると考えを改める必要があります。 百歩譲って、会社に問題がある場合、つまり会社批判が正当なら上長に言えばよいわけです。

このような話は珍しくもなく、その対応も古くから研究されてきました。 一つはその人に将来展望を持ってもらうこと、将来このように目標を達成してゆけば良い評価を得られるでしょう。 しかし将来展望を持ってもらうのは人によっては至難の業です。

次に監視を強化し、問題行動を指摘し注意することです。 教育的効果は限定的です。 そもそも問題行動を繰り返す人が考えを改める可能性が低すぎるわけです。 何とか引き上げようとしても改善するかどうかは本人次第、関与する管理職が疲弊してしまいます。

弁護士に相談するといろいろ方法を教えてくれますが、外部を頼って荒治療するのは最終手段になります。

私は最善の策として常に毅然とした態度を心掛けています。 これらの問題は『いじめ』や『愉快犯』と同じで、揺さぶりに動揺することなく徹底して対処しなければなりません。

少し利口な人で問題行動を起こす人は自らの考え方が明るみになった時に大抵は辞めてゆきました。 あまり利口でない人はなかなか辞めてゆきません。 もちろん考えを変えることもしません。 最後は日本の法律が改善するのを待つより仕方がありません。

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[人間関係]

[会社運営]

ガンコ

会社運営でうまく事が運ばない局面の一つに、重要な局面で意思の統一が上手く行かず、いつまでも決定できなかったり、無理やり決定して関係する(決定に従い実行する)メンバーが決定に忠実に従わない場合である。

後者の例でいえば営業部で個別の戦術、例えば今月はこの商材のデモを徹底して行うと店長から指示が出た時、個々の営業者はいろいろ考える。 付加される営業の課題なので熱心に行わない、自分の取引先のほんの一部しかデモを行わない、その中で一つでもデモに価値がない意見が出たらそれを一般化しようとする、等である。

その商材が現場で20%しか評価されないとすると10回デモを行って2回が有効となる訳ですが、デモ企画に何らかの理由で後ろ向きの営業は初めの数回で嫌気がさし、さらにデモを行ったとしてもその商材の自らの評価も下げているのでデモのトークに熱が入りません。

そもそもすべてのユーザーに受け入れる商材はほとんどない訳です。 2割のユーザーだけが評価すると考えるかこの商材は2割ものユーザーから評価されると考えるかで大きく異なります。 何万点と商材がある中で2割の支持は圧倒的です。

仮に評価割合が1%であった場合、当社の商売としても低ければその商材のデモを繰り返すことはその商材の販売という点で価値は低いでしょう。 しかし商材デモは市場で何が評価されるか見極めのために必要です。
指示を出した店長にとってもデモを行った営業者にとっても商売の感性を磨く点で重要です。

人の気持ちは常に柔軟でも素直でもありません。 柔軟で素直な心の人がこの事例のような場合に小さな成功を収めていきます。 柔軟さや素直さを阻害するものは予断(この商材はダメだと思い込むこと)、徒労感(デモのやり方が下手でデモを行っても相手の歓心が得られないなど)、プライドなどです。

実は自分は別の商材の方が市場で評価されると思っていたり自分は営業として高い技能を持っているのでほかのやり方を行った方が良いと過信し、それを貫くことで良い結果をもたらすことがあります。 意地を張る場合です。 その結果を否定はしませんが、そこまで営業に自信があれば他の営業がデモを行ってその商材が2割の支持の時、その人は2割以上の支持を得られるはずです。

現実の場面でも指示にしたかって予断を持たずデモを行っている人は確実に実績を出していて、指示に従わなかった人は殆ど全員が結果を出せていません。

店長の役割はこの戦術に従わせること、しかも素直に、ということになりますからこの場面の例では簡単な役割に見えます。 しかし素直に(個々人のガンコを排して)支持に従わせることは至難の業です。

ある人はいろいろなデータから科学的な営業手法を開示し、自分への信頼感を高めようとしますし別の人は人事考課で露骨に差を付けようとします。 古来いろいろな組織の人心掌握方法が編み出され来ました。 結論から言うと決定打はありません。

指示に従わないことへの恐怖心は組織運営にとって必要ですが、恐怖心は抱くもので抱かせるものではありません。(少なくとも会社運営では) 科学的に説明は常に科学的に見えるほど管理職は営業の科学者ではありませんし、感じたことを科学的に説明するのが難しいものです。

結局話をよく聞き、まめに多面的説明・注意を繰り返すことが効果的に思えます。 自分の部下が皆素直と思うのはそうであるべきとの管理者の予断、皆悪意に満ちているというのもそう考えるほうにそもそも問題を感じます。

私のお勧めは自ら徹底的に素直になることです。

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[人間関係]

[採用]

シニアの炎上

日本経済新聞にシニアのSNSに関する記事が出ていました。 テーマの一つはシニアのネット普及率、総務省の通信利用動向調査2012年では65~69歳で62.7%、70~79歳では48.7%、それぞれ前年対比1.8%、6.1%増加しているそうです。

この数字を多いとみるか少ないとみるか評価は分かれると思いますが、61歳の私としては多いように思います。 たまたま自分の周りいる人や会社の職員でこの年齢層の人は皆ネットを利用しておられます。

二つ目のテーマはその年代層の人、定年退職後社会の接点を求めてSNSを始め、自らの信条、歴史観等を披歴し、反論に熱くなって炎上するケースがあることです。 事例としてはそれまでネットを使って自分の意見を書いた経験のない人が話題になっています。

炎上させる相手にシニアも多いとのこと、シニアは熱くなりやすいということでしょうか。 私は61歳、65歳以上の年代は未知で最近は付き合いも少ない年代です。 確かに以前その年代の人との会話を思い起こせば思想・信条、歴史観といった話題が多かったように思います。 特にリタイアすれば日々の話題は少なくなるはずです。

私はこのブログでも歴史観、宗教、政治は話題として避けています。 もちろん誰かの批判も過去に一度職員の怠慢な態度をブログで書いて炎上こそしなかったものの社内でうわさになり、当事者が対処した経験もあります。 もちろんその時も行為行動について書いただけで、誰がとは一切書かなかったことですが。

高齢者が顧客に多い商売をしていてこの話題は注意しなければならない示唆を含んでいると思います。 そしていずれシニアのネット環境が飽和すると我々の商売においても常にネットに書き込まれたことを注意しなければならない時代が来ると思います。

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[人間関係]

老人の話題

今日は定期健康診断、法定されているので無駄と知りつつ避けて通ることができません。 以前よりは検診が手際よく進むので同じ検査項目でも時間は毎年短くなっています。

検診センターにつくと当社の職員が多く来ていました。 たまたま60歳くらいの人が多く、一つ検診が終わると誰かが待っていて話をします。 面白いことに話題は健康にかかわるもの、体重を落とせない、血圧が高い、最近散歩を始めた、酒を控えているなどです。

昔は60歳が定年でしたか当社は65歳、私も含めこの年齢層の人は実に元気そうに見えますが健康を気にしています。 皆さんアクティブで趣味もあり、気軽に世間話をしてくださいます。 一般の60歳過ぎの人よりずっと若々しく、元気な気がします。 「働こうという気のある人はみんな元気なんだ」と思ってしまいますが元気だから働こうという気になるのかもしれません。 ある意味で選ばれし人たちでしょうか。

しかし私の場合は数年前に会議で突然寝てしまうようになりました。 医者に相談に行くと無呼吸症候群とのこと、レーザーで喉の奥を焼切るか体重を落とすかと言われ、体重を落とすことにしました。 5年ほどかけて8㎏やせ、まだ減量中です。 途中で中性脂肪が高いのが解り、その対策でも減量を続けています。 基礎代謝が落ちたので8㎏の減量に長時間かかりました。 炭水化物を取らないようにする減量で、ご飯が好きな私としては大変つらい食事制限です。 減るほうは緩やかでも食べ過ぎると過敏に太ります。

ほかの同年代の人はそこまでの対策をしていないので立派なお腹をしています。 『きっと自分の方が長生きをするぞ!』と思いつつほかの人は気にする必要もないほど体が丈夫なのかと訝ったりしています。

そんなことで張り合うよりも趣味の話でもした方がまだましかもしれませんがこの年代の健康に対する不安は大きなものです。

一方若い職員たちは若いもの同士なりやら真剣に仕事の話をしています。 たまにこんな場所で会うのだから遊びの話でもすればいいのに、と思いますが若い人は仕事に対する不安が何より大きいのでしょうね。

新聞を読んでいると医療介護の話題に事欠きません。 それがいかに日本の経済の重みになっているか、のために高齢者は働き、年金受給開始年齢を引き上げ、と我々が経済発展を阻害するアンカーともとれる記事が多く出ています。 一方若者の勤労意欲や遣り甲斐についてもたまに新聞の話題になります。 当社職員に限り大変国策に沿った職員が多いことがわかりました。 皆が健康で前向きに働けば新聞の記事の内容も変わってくると思います。

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[人間関係]

コミュニケーション

採用面接をしていてコミュニケーションの難しさを痛感します。 具体的客観的な質問をするとその質問の意図を読み、意図に合わせた考えを答えられるケースが多いです。

『あなたの将来の夢はなんですか?』と聞くと将来に対する心構え、それも『明るく、楽しく、誠実に生きること』などと答えが返ってきます。 それも確かに夢ではありますが、具体的なものを求めているとき『明るく、楽しく生きる』うえで趣味にまい進する、それが魚釣りなら将来海辺に転居し、釣り三昧の暮らしがしたいとかになって来ると思います。

夢を実現させるのはいつの世も難しいことで、難しいから夢であるように思います。(もちろん難しくない夢もあるでしょうが、人の思いはえてして高きを求めるもの、そして高きは実現が難しいものということでしょうか) それゆえ夢の実現を明確に意識している人はいつまでに何をしてという夢実現に向けて時間、準備項目を明確にし、工程表を意識します。

夢は強く思えば、物理的に不可能なことを除いて実現させることができます。 私が60歳になって社会人野球の選手を目指すとしても野球はやってこなかったし、年齢的にも無理です。 しかし野球を楽しむ程度にやれるようになることは可能だと思います。

採用面接で若い人に夢を聞くと就職し、結婚し、子供を作り、戸建ての家を建て、と続きます。 そのことを否定するつもりはありませんし、職員の中には着々とそれを進めている人がいます。 普通に働き、普通にきちっと仕事をし、普通に昇給してゆけばある程度の妥協は必要でもここまでの夢はかなうでしょう。 そしてそのその先にあなたの夢があるのではないですが?、それを聞きたいのです。

私はどうかというと、最初サラリーマンになった時、社長ならやりたいと思いました。 つまりは会社運営、事業経営が夢でしたが、初めの会社で働けば働くほど浮いてしまい、結局退職して自ら会社経営をする羽目になり、サラリーマン時代の不愉快だったことを反面教師に経営しました。 そういう意味では企業規模はともかく、夢は実現しましたが充足感は半分といったところでしょうか。 会社経営に理想があるからサラリーマンになった時に夢にしましたが、その理想形を明確に描いておらず、日々の目先の課題対処で理想追求から遠のいていたのだと思います。 目指すべき規模は、社風は、事業分野はと明確に具体的に描いておればよかったと思っています。

話はコミュニケーションに戻りますが、人は何故具体的客観的答えを望まないのか(これは私が勝手にそう思っているだけですが)、仕事をするうえでいつも悩むことです。

仕入れ交渉など対外折衝で私はこれだけの仕入れをするのでいくらの仕切りなるか、提示を求めます。 そして妥結できれば全力で約束を守るようにします。 もちろん守られない場合もありますが、その時は相手に逐一報告し、誠意を示すようにしています。 最終的に未達であれば仕入れ先に謝罪に出向きますし、途中でより安い価格提示があっても乗り換えることはいたしません。 ただし、いつまでという期限が過ぎればあっさり乗り換える場合もあります。

ある仕入れ先と交渉した時、相手に譲歩してもらう代償として「販売予定額は?」と聞かれ、末端価格で〇〇と言いましたが先方は仕入れ金額を聞いていました。 帰りの電車で『しまった!』と思いましたが後の祭り、現在必死に拡販しています。

具体的客観的コミュニケーションは話がまとまりやすく、結果的に解釈に遊びがなくなります。 発言内容は約束として拘束力をもち、果たせなければどうなるのか?と不安になります。 これがコミュニケーションで曖昧になる要素だと思います。 具体的に話をまとめ、それを果たすか果たすべく最善を尽くせば信頼は増してゆきます。 この信頼感は業界・職種・役職・男女・年齢関係なく通用すると思いますが、いつも曖昧にコミュニケーションを図る人に対してはそもそも具体的、客観的な会話は成立しません。 こちらが具体的に話をしても相手は原則論しか言わないとか、私はそのような人に沈黙を守るようにしています。 無理にコミュニケーションをとっても非難の応酬になります。 コミュニケーションをとるべき相手はいくらでもいて、そちらに勢力を使い切ってしまい、不毛のコミュニケーションは私にとって意味がありません。

 

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[人間関係]

人の気持ち

会社には様々な人間関係があって、混然一体となって組織が動いています。 組織が上手く機能している会社は業績もよく、訪問すれば大変気持ちよく応対してくれます。

それはひとえに幹部、大抵は社長の生き方、価値観で決まると思います。 予期につけ悪しきにつけそれが社長の役割です。 もちろんそれだけで業績の良し悪しが決まるわけではありませんが、大変重要なことだと思います。

そこでの人間関係は恋愛感情に似ているのかと思います。 恋人同士は何らかの惹かれるものがあるから関係が成立しているわけで、とりあえず恋人とかたまたま恋人とかではありません。

会社に帰属する人もとりあえず社員やたまたま社員ではないと思います。 就職難だったので取敢えず勤務しているとか、たまたまハローワークで見つけたとか、しかし嫌なら辞めることは可能で、当社の職員の殆どが中途採用、転職に抵抗は大きくないはずですから勤めてみたら勤めてよかったというところでしょうか。

会社への帰属意識や会社の本人への期待といったものが絆になっていますが、絆を深めることがあります。 絆が深まるとその人は全霊をかけて仕事に打ち込みます。

それは本人が悩んでいるとき、本人が困っているとき、私としては当然と思えることを行ったわけですが、その人は深く感謝し、仕事に私のために全霊を傾けます。 そのような人の気持ちに鈍感な私は第三者の人に「彼は社長のために働いているのですよ」、「いやいや自分の人生があるでしょう、人は自分のために頑張るものでしょう」と間の抜けた話になります。

では自分が当然と思い、相手がそのように思うまでのこととは一体何か、たわいもないことで相手の困っていることをさりげなく解決してあげること、相手が期待していることを感じて対処することでしょう。 相手は自分の置かれた状況を私が知っているはずと思っています。 だからわざわざ口に出して言わなくてもさりげなくやってもらえればうれしいということです。 うれしさはやってもらった行為の大きさではなく「さりげなさ」、つまり共感できるものを持っているとことにパイプがあるのではないでしょうか?

私が求めに応じて同じ行為をいやいやすれば相手は多少の感謝はしても感動はないでしょう。 今の若い人、特に当社の職員はさりげない心配りに大きな価値観を持っているようです。 鈍感な私にはつらい話ですが。

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