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考える訓練

 すでに退職した営業職の方がいつも余計な一言を言って失敗を続けていました。 ある時彼の机にメモが張り付けてあり、『余計なことを言わない』と書いてありました。 熱心な営業職の方でいろいろ考え、おそらく親切で『余計な一言』を言ってしまって失敗を重ねていたように思います。

何度か彼とは二人で食事して悪い人でないことは理解していましたが、まっすぐ考えないためにまっすぐでない理由をわざわざ考える、そしてある時考えたことを喋ってしまうように思いました。 もし机のメモに書くなら『余計なことは考えない』でしょうか?

他人事ではなく私も『余計なことを言う』と文句を言う人がいます。 その人の非難には続きがあり、『余計なことを考えるから余計なことを言ってしまう』らしいです。 全くその通り、考えなければ言う事もありません。 考えることすべてが善であり美しい事であるなら他人を傷つける言葉は無くなるのか?

しかし言わせていただければ善意に満ちて美しい事しか考えない人が他人を厳しく排撃する発言を何度も耳にしています。 善意だから何を言ってもよいわけではなく、善意と社会のルールや容認されている価値観が対立しないわけではありません。

善良に考えるはせいぜい対立を減らす方法にすぎません。 本音は私に余計なことを考えると非難した人に何をもって余計なことか反問したいと思いました。 その人は確かにシンプルに物事を考え、価値観を示す発言は差し控えます。

当たり障りのない事は『事実らしきこと』のみ話題にして、評価はいいね! くらいに留めておけば日常のコミュニケーションで大きくつまずきません。

生きて行くには仕事をしなければならず、こまごまとした判断や大きな決断、他人の行為の評価、判断・評価の説明が必要です。 それらは単純な事実ではなく、判断・評価を行った者の価値観や姿勢、善悪のその人なりの基準などがちりばめられています。 さらに家は好悪の感情などやっかいなものまで潜んでいます。

いろいろ考えすぎると何も言えなくなります。 それでも言わなければならないことがあるので何を話すかいつも考え苦しんでいます。

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