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諦めの納得

なんとも意味不明のタイトルです。 自分が諦めの悪い人間であることは欠点か長所かと考えることがよくあります。 そのような気質を生かすか生かさないかで欠点にも長所にもなってゆきます。 問題は程度の話、諦めが悪いというより執念深い事例として前職で役職上位者で評価できない人が私が仕事に集中しているときに頭をはたいていきました。 集中していただけに何が起こったかわからず、状況が把握できて怒りがこみ上げてきました。 結局何もしなかったのですが、その人とは以後の関係が改善する事は無く、約30年経過した現在でも思い出すことがあり、同時に怒りがこみ上げてきます。

もし今、眼前にその男が無防備で現れたとしたら仕返しとして殴るだろうか、過去を忘れ昔話をするか、どちらもないでしょう。 私は仮に挨拶を受けたとしても完全に無視するでしょう。

誰でも再現したくない記憶をもっています。 それは完全に忘れてしまう事が将来に向け、その人の幸せにつながることだと思います。 だからそもそも30年も忘れられない憎しみの記憶をもたなければよいわけですが、その時はかっとなって記憶が刷り込まれてしまいました。 その後30年間たまに再現されたことについては幸福のマイナス要因となりましたし、その男と以後うまく付き合えば会社での人間関係は潤滑に言ったと思います。

しかしその男は内容の乏しいアクションが派手なだけの人間だったので、その男と関係を円滑に継続したことにより人として得るものは少なかったように思います。 つまり自分にとってどうでもよい人間との関係で大事な記憶領域を長期に使ったことの喪失は計り知れないと思います。

そもそもバカ、もしくはバカげたことに対する憎しみは善悪の問題でない場合が多く、憎しみを抱かない価値観を身に着けたいものです。 私はこのようなバカげた感情のゆらぎ、それが憎しみに関わることであれば紙に鉛筆で克明に書くようにしています。 1つの事案を1時間かけて克明に記述すればそのようなこと自体がばかばかしくなってきます。 忘れようと思うより、克明に思い出してそれがつまらぬことであると認識に導くことが諦めの納得ではないかと思います。

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