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人格を鍛える

ある職員の人が見た目や所作、話す言葉から人格に問題があるかのように誤解されました。 私はあまり気にしなかったのですが女性職員の多い会社なので服装の清潔感など話題になってしまいます。

そこでその人と話をすることにしました。 悪いことをしているわけではないので注意ではありません。 その人のことを思い、その人のためになる話をしようと一日考えました。

結果的に言った言葉は苛烈でした。 私の気持ちが伝わったのかどうかわかりませんが、気持ちを込めて言ったつもりです。 伝わらなかったとしたら私自身に問題があると心に決めました。

私自身の人格が他人の尊敬に値するものと思っていません。 私は人格を疑われるようなことをやってきたように思います。 自分の生きてきた足跡として関係した人の尊敬の念が蓄積されているかというとそうではありません。 若いときはいつも不満を抱き他人と融和せず、自分がやろうとすることをひたすら推し進めた人間だったと思います。

話をした人は過去の話を聞く限り立派に誠実に生きてこられた方と思います。 私がその人から説諭されるならともかく逆の立場であることはめぐりあわせの意地悪さを感じました。 どのような感情をもったとしてもやらなければならない話はします。 自分を偽り話すのではなく、単に損得の問題としてなら私には語る資格があると思いました。

話し終わってから一日たって自分の人格を鍛える必要を感じました。 人格は形成されると言いますが、良い人格かつまらない人格かは別にして64歳の自分としては自分の人格を白紙に戻して形成し直すことはできません。 そこで鍛えると表現しました。

目的は自分の人格が他人から見て尊敬に値するものであること、他人から見て私の人格が解り易い事です。
鍛えるために何をするのか、私の結論は体を鍛える事、苦痛を自らに与えながら考え続けて自分にとって有効な考えをふるいにかけて残し、しみこませてゆくことだと思いました。 少し焦点がずれて見えるかもしれませんが、僧侶の修行でも作業を淡々とこなす、阿闍梨のように長期に山野を駆け回る、座禅を組んで煩悩を消し去るなどと通じることかもしれません。

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