監査役BLOG

カテゴリ

未分類

[未分類]

人は苦しむために生まれてきたわけではない        塩沼亮潤氏

 タイトルの方は大峰山の阿闍梨です。 阿闍梨は死を掛けた修行をなしとげた僧侶を意味します。 氏は高校を卒業するまで極貧の中で生活し、苦労して大峰山で得度して阿闍梨になられた方で、なぜにそんなに苦労して生きて行くのか不思議に思う人生を歩まれてきましたが、自分の苦労話はいかにも楽しそうに著書では語られていて悟られたことがタイトルの言葉です。

生活苦や修行での肉体苦を体験されてなお明るい文章をつづられ、苦痛を笑い話にしてしまう感覚はいろいろな苦しみの中でもがく凡人に明るさを照らしておられます。

私事ですが、65歳を超えて前期高齢者となり、なおかつ現役の経営者の一員として日々苦難に向かっていますが、高い中性脂肪値を改善するため食事を可能な限り少なくして減量に成功したり、腹筋を鍛えていて腹筋がぼこぼこ出てきたり、仕事の問題を解決するために寝られない日が続き、突然と解決したり、それぞれの局面では苦しいのですが、解決して達成感を味わえる喜びはあります。

このブログでも何度も書いていますが、私は10日計画を作っています。 前の十日の反省と今後の十日の心構えを700字程度にまとめます。 いつも予定が未達に終わったことを反省していて『もう少し苦痛に耐える力が必要だ』みたいなことを書いています。 9月1日の十日計画では、出来なかったことより出来たことに希望をと書きました。 65歳を過ぎて筋トレとダイエットで美しい?体形になったり、難しい課題が解決できたり、喜びにあふれています。

同年代の人と比較ではなく、自分が味わう事のできる喜び、感じる達成感、人間はそのようなものを糧にして日々前向きに暮らしていけると思っています。 私は先祖への感謝や自分を支えてくれている周囲の人への感謝の念はあまり湧かない方です。 同時に自分の人生を阻害してきた人に対する憎悪の念も抱かないようにしています。 大変努力し、それなりの成果を上げて喜び感じる人生を送ることが結果として周囲の人や身内、敷いては社会に何らかの貢献を果たしていると思っています。 かといって世のため人のためになることを規範にもしていません。 何をやっても人のためになるかどうかは相手次第、自分が良かれと思う事は自分の喜びに繋がり、社会にも貢献していると信じています。 結果的に周囲の人の為になれば良いと思っています。

かつて薬局の床が汚いのでそこで働く職員に掃除をお願いしたことがありました。 薬局は患者様に口に入れたりする薬を提供する場、その場が汚いのは私の心が許せません。 お願いした職員はまじめに掃除をしないばかりか掃除をまるでバカにしていました。 そこで「もう結構です」と言って5年ほど毎朝2時間程度掃除をしました。 小さい薬局なので2時間も掃除をするとピカピカになります。 その後私の指示をバカにした薬剤師は皆辞めてゆきました。 今思い出しても気持ちの良い人たちではありません。 当時は一人辞めるたびに乾杯したいぐらいうれしかったものです。 その後営業職の人が店舗研修で入ってきて私の代わりに自発的に掃除してくれました。 彼らは薬剤師の半分の給与、15年ほどたってその人は薬剤師の年収の1.5倍になっています。 辞めていった薬剤師は同じ感覚で働いているなら同じような給与で陰口を言いながらどこかで働いていると思います。

自分の信じることに誠実に生きて行くことが辞めた薬剤師にはうっとおしい事でしょうし、私の代わりに掃除を申し出た営業職の人は私同様喜びを味わう事のできる人生を全うしていると思います。

毎日2時間前に出てきて掃除をすることは苦しい人もいるかもしれませんが、同じことを喜びとしてできればそれこそ素晴らしい人生ではないでしょうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

上に戻る