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許す

人と話をするときに目的があります。 話す相手は好感を抱いている人も嫌悪感を抱いている人もいます。 私は人の好き嫌いが強いのではと密かに思っていますが、他人に言われることがないのであまり気にしていません。

プライベートとしては嫌悪する人に接しなければよく、ひたすら好感を抱く人とのみ接点を持てばよいことですが、仕事となるとそうは行きません。

会社内で何かを伝えなければならない時に私も人間ですから好感を抱いていない人に何かを伝えるときに言葉がそっけなかったり、棘が有ったりしているようです。 誰にでもいえることだと思います。

なぜ好感をもてないのか、ほとんどが生理的なものです。 晩年の父親(故人)の場合は「こうしなければいけない」とか「こうあるべきだ」ということをよく言いました。 当時私は冬山に入山していましたが、「40歳を過ぎて危険だから止めなさい」といいます。 30歳代なら良いのかといえば危険性はさほど変わりません。 しかし自らは60歳を過ぎてスクーターで長距離の旅行にゆきます。 「危険だから止めたら」というと「大丈夫」という返事です。 愛情の裏返しかもしれませんが自分のことを棚に上げて人のことに「…すべきだ、してはいけない」と言い続ける人でした。

自分が理解できないことは「そんなことは起こるはずがない」とか相手の目を見ずにくどくど言うとか、一度「大事な話は相手の目を見てすべきだ」というと激怒し、何か月も口をききません。 何か決めなければならないことがあればその間決めることができません。

自分では父親の態度に腹を立てていたのですが、自分と相いれない価値観の押し付けにいら立っていたのです。

親子でも価値観は異なるもので、それを押し付ける、本人も押し付けるのが良くないと解っていてあらぬ方を見て高圧的に叱責する、今でいうパワハラのようなものでしょう。

価値観の違いであれば「そういう考えもあるね」と受け流せばよかったのですが、正面切って反論し善悪の問題であるかのように考えた自分の未熟さに今更ながらに嫌気がさします。 父親は大人、自分は子供、社会が変わり自分の方が社会経験を積んでいるのだから合理的な判断をしているはずと思っているので超えられない立場の違いに戸惑いもあったのでしょう。

社内の会話に戻り、自分も経験も積んで立場から話を聞き、話をする場面が多くなってきました。 かつての父親の立場が今の自分の立場とかぶり、『気を付けなければかつてのオヤジと同じになってしまう』と懸念します。

しかし人ですから生理的に嫌うこともあり、嫌う点を超越できればもっと相手に伝わる会話が成り立つ、そのためには相手の嫌う点を許す、もしくは気にしないようにする。 しかし、許す・許さないの問題ではなく、好感を持つか嫌悪感を持つか、善悪ではない自分の価値観の問題につきます。

許すかどうかは善悪の問題、悪いことをすれば処断すれば済むことです。 処断を知友著するのは温情ではなく欺瞞にすぎません。 好悪の問題で処断されたら相手はたまったものではありません。 話すべきは会社で仕事をする上での価値観のすり合わせが多いですから善悪でも好悪でもない話です。

時として組織で働くことに疲れてしまうことがあります。

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