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人生の目標

私は日常生活において毎週目標を設定しています。 たとえば今週はこの仕事を仕上げるとか、掃除は何回するとか、筋トレ何時間などです。

この目標は一年ぐらい続けていて、以前は今週出来たことを週単位でメモにしていました。

目標設定するようになってから違和感を覚えるようになりました。 『そもそも目標は結果を示すもの』という疑問です。 筋トレを毎週何時間もするのはその先に肉体美を整えるとか、ですが肉体美を整えるという目標は設定したことがありません。 むしろ60歳を過ぎて体力に自信を無くし、何とかしようと考えたからで、その前に無呼吸に陥って体重を減らす、食事を改善して筋トレをすると繋がっています。

無呼吸を改善する、そのために体重を何キロに落とす、最終目標からどんどんプロセスや方法に落とし込んでしまったために目標設定に違和感を感じたわけです。

そこでいったい自分はどうしたいのか、を考えました。 会社にも私より年上の方がおられ、皆大変お元気なのですが、それとなく聞いてみました。

所得の面で働かなくてもよい人も多く、責任や拘束の軽い仕事を比較的低収入でやっておられます。 体も元気、頭もしっかりしている、能力も高い、しかし余生を遊んで暮らしていては社会との関係が薄れ、人生に充実感がないので働く意義に価値を見出しておられるように思いました。

私の場合、定年がなく、オーナー企業の代表ですから辞めろと言う人もいません。 しかし企業の代表としての職務を全うしたいと思うのは当然で、そのために健康でいる必要もあるし、向上心をもって仕事に取り組まなくては立場に立っているだけになります。

仕事は事業全般を監視し、決定を下し、成果を生むことにありますが職員に相談できないことも多くあります。 ある人にそのことを遠回しに言ったら「そんなことは立場・個人の問題で立ち入ることはできない」と一蹴されました。

多くの決断をなし、時間の経過とともに結果が出て、『あの決定が間違っていた、自分のミスだ』と嘆くことは多くあります。 うまく行って当たり前、失敗したことは忘れられません。 手を抜いていたわけではないけれどミスジャッジはいつまでも心に残ります。

このように結果にとらわれ、嘆き苦しんでも生産的でなく、また失敗した決断が次に役立つとは限りません。 周囲が賛成しようが反対しようが自らの感性を研ぎ澄まし、毅然と判断する、それができるよう常に自分を磨いておくことが必要になってきます。

別にガンコになろうと言っているわけではなく、常にベストコンディションで決断する、それが良い結果を生まなくても結果は結果と割り切ることだと思いました。

だから日々の目標設定も日々の精進として結果を目標にしない、良い結果を生むプロセスに注力しようと結論付けました。 もちろん結果を想定しないわけではありません。 結果にとらわれて個々の決定をくださない、常に健全でよい判断をすれば結果はある程度ついてくると考えるようになりました。

かつて女子テニスプレーヤーのグラフ選手はサーブの時に何を考えているかと聞かれて『トスをこの高さに上げスピンをかけセンター奥に落としてバウンドさせ、浮いてしまったリターンを相手バックにフラットで打ち込む』といったプレーを頭の中で映像として描き、その通りプレーすると言っていました。 このセットを6対2でとるとかは言いません。

同じように健康を維持して健全な判断ができるようにする、そのように考えて腹筋をすればより健康につながるように思います。

結果は重要ですが、結果を目標にすることは上手く行かない気がしました。

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