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人間関係

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人として

私はプライベートでおつきあいしている人は大変少ない方だと思います。 営業職の採用面接で親密に付き合っている人の人数を聞くことがあります。 『月に一回程度は連絡を取る人は何人ぐらいですか?』と聞いて30人と答えが返ってくると驚きです。

私の場合はせいぜい5人程度です。

アドラーの解説書がよく売れているそうです。 人の問題のすべては人間関係にあるという考え方で分析をした人のようですが、30人の人と親しく付き合えるとなると大変こなれた人に思えます。

私の親しい人の数が少ないのは私の性格に問題があって、多くの人と付き合う事が出来ないことにあります。 大変多くの人と親しくお付き合いしている人は結局深い付き合いができない人と思っていました。 浅く広く付き合う人の事ですが、親密な付き合いができるのは相手の人に興味を持ち続ける事が出来るからと私はずっと思っていました。

興味のある人と出会うとその人の事を深く知りたくて面談を繰り返します。 そして質問を続けます。 何が好きか、どういう価値観を持っているのか、宗教や政治、異性への関心、家族関係、一渡り質問を繰り返し、相手がどのような人であるか知りえたと思ったらその人に対する関心が失せてしまい、質問しなくなり、やがては会うこともなくなります。

学生だった頃、質問が尽きてもその人への関心が無くならない男性の友人が出来ました。 いろいろ話をして、どのような人間であるか理解したつもりになって新たな質問がなくなっても、また会ってわかっている答えを聞きたいと思う人でした。 質問するとほぼ想定した答えが返ってきますがその人の口からその答えを聞くと新鮮な意見に聞こえたものでした。

私がプライベートで付き合う人が少ないのはこのような理由で、関心を持って一定期間付き合ったことのある人は多い方だと思います。

人は何故友人を持つのか、一人ぼっちは淋しいから、助けてほしいから、同じ趣味に興じるため、いろいろあるでしょうが、私は自分の考えを整理し人として成長することに価値を見出しています。 問答を繰り返し、相手の答えにそう言う事かと気づき、自分の考えを改めていくことは人間関係の醍醐味でしょう。

親しい友人の一人に私から見て大変身勝手な人がいます。 私は何かを言うと私の無神経な一言を厳しく追及してきます。 よくもそこまで言えるものだと感心しますが、ご自身の発言はあまり立派とは言えません。

あるときその人の気に障ることを言ってしまい、大変非難されました。 『そのようなことを言うのは普段からそのように考えているからだ』、言われてみればそうかもしれず、『そのように考えている』考えは脚色され、私はまともな人間ではないと烙印を押されます。

口に出して自分が感じたことを言ってしまうことは確かに自分の意志でコントロールでき、相手にとって不愉快なことは思っても言わないようにできます。 もちろんそれなりに注意力が必要ですが。 しかし、『思ってはいけない』と言われても少なくとも頭に思い描くことまではコントロールできません。

鮮烈な価値観を自ら会得した人、例えばある種の宗教に帰依し、その教義を深く取り込んだ人は少なくともその教義に反することは心の中で思い浮かぶことすら無くなるかもしれません。

誰かに憎しみを抱くことは好ましいことではありません。 なぜならそれは善悪の問題ではなく感情であり、それに支配された行動は生産的ではありません。 私はどちらかというと執念深い方、裏切られれば許す事が出来ない性質です。

信頼していた人に裏切られ、本人は些細な事と思っているようですが、私にとっては生き死にの問題だったことがありました。 そのことを忘れようとしても忘れられず、忘れようとすればするほど自分が傷ついてしまい、一切会わないようにしました。

復讐を考えたことはなく、憎しみの理由を説明する気もなく、つまりは蟠りを消すには忘れるしかありません。 その記憶が言葉となってしまうとむなしく、後味の悪いものです。

例示した友人はそのようなときにすかさず私の愚かさをなじります。 人の苦痛も解らずよくも平気で言えたものだと思っても言っていることは正しく、愚かであることを愚かと言っているのです。 その友人が尊敬する偉大な思想家であったなら素直に憎しみを消し去ることが出来たのかもしれません。

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