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ある有名大学学生がよく読む本として新聞に紹介された外山滋比古氏の『思考の整理学』という本を読むと、ことわざの解説が出てきました。

著者はことわざが学校教育においてないがしろにされていると述べておられます。 その原因が知的でないということのようです。

私が学生だった頃は親からことわざをことあるたびに言われました。 それを言う親や大人は『大事なことを教えてやろう』という感じで、何度も繰り返されるのでいまだに焼き付いていますが、他人を諭すときに使った記憶はありません。

同様に会社やプライベートの会話でことわざを喩に使う人はお目にかかりません。 ことわざが廃れたのか別の言葉で置き換わって表現できるのか、言葉のたとえが実感できないからかわかりません。

『李下に冠を正さず』は李(すもも)の木の下で曲がった冠を直すと、李の実を盗んでいるのではないかと誤解を招く恐れがあると言う意味で、私の父はよく言いました。 正直に生きるのは勿論のこと、正直であることの誤解も避けよという意味は父の生き方そのもののように当時思いました。 しかし冠を被ることは日常ではないことで、李の木の下という想定はこれも日常的ではありません。

現在であればコンプライアンスの一言で済ませているのかもしれません。

前出の本で解説されていることわざに『従僕に英雄なし』があり、私は初めて聞くことわざでした。 世間で英雄と評価される人に身近に仕えたものはその英雄が凡人に見えるという意味だそうです。

著者の解説でことわざは、経験値を言葉で言い表したもので有益であると評価されています。 『従僕に英雄なし』も世間で有名な経営者の直属の部下に言わせれば大した人ではないことになるかもしれません。

私自身はそれこそ世間で英雄扱いされることはありませんが、事業に失敗した人から事業成功の秘訣を聞かれたことがあります。 私は『運が良かった、特に人に恵まれた』というとその人は大変納得され、『世間で成功した人は皆そのように答えます』と言われました。 私も事業で成功した経営者の本を読んでいて、運の良さを成功の秘訣として書かれていたり、内容から運の良い人と思う記述に何度もお目にかかります。

運が良い人がいると仮定すれば、運の悪い人もいることになります。 採用面接をしていて、そういう人にお目にかかります。 本人が『私は運の無い人間です』とは言わないまでも職歴が多く、勤めた会社の倒産が転職の理由の殆どと言う場合、運に恵まれないのかと思います。

履歴書記載事項にそういったものがなくても初めに顔を合わした時、少し話した時、脈絡もなく不運の言葉をイメージしてしまう方がおられます。 理屈でなく感じてしまう、同じようなことは何ともある、こういった事象は科学的ではないにしろことわざなり経験値として心に留め置くのは役立つことのように思います。

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