監査役BLOG

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習慣化

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ミニマリスト

 日本経済新聞にミニマリストが紹介されていました。 初めて聞く言葉で、物にこだわらない価値観をもつ人との印象を受けました。

具体的に紹介されていた人はフィリピンに移住し、現地で暮らすのに(男性で未婚男性と思われます)大きなカバン二つだけの荷物だそうです。

ミニマリストは所有物が少ない、という特徴と移動しやすいという特徴(おそらく転居することが価値をもつ)をもっているのでしょう。

介護保険が始まったときに日本の介護ベッドとドイツの介護ベッドの違いで、日本のそれはベッド周りに物がたくさん置いてあり、ドイツの10倍と書かれていたのを思い出しました。 日本人は基本的にアンチミニマリストだと思います。 介護の世界でゴミ屋敷が話題になりますが、私の母も施設に入る直前ゴミ屋敷なっていました。 最も母の場合若い時からため込む性格で、物のない時代に育ったから物への執着が強いのだろうと思っていました。

私の価値観はミニマリストに近いと思います。 最近は物を買わないでなんでも大切に使っていくことを心がけていますが、気が付くと物が増えています。 そもそも大切に使うので服でも食器でも傷んだり割ってしまう事があまりありません。 10年以上着続けているスーツや20年以上履き続けている革靴(何度も底を張り替え週に1度くらいしか履きませんが)、なかなか荷物が減らないので暇を見つけここ数年使っていないものや着ていない服を捨てています。

思い切りが悪いので荷物の減少はわずかずつです。 それでも減りだすとほんとは必要だがしまい込んでいたので使わなかった物を見つけたりします。 いまの年齢になれば物欲は希薄になってくるので今後5年で荷物は半分くらいにしたいと考えています。

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[習慣化]

社員総会

 当社は半期に一度社員総会を行ってきました。 15年くらいは続いていると思います。 始めた頃は社員数も少なく、皆お互いに知っていた中で施策の発表や業績の振り返りを行い、後は立食パーティになります。

現在は職員が180人を超え、総会の意味合いも異なってきます。 やっていることは同じなのですが、かつて150人を超えた人の前で今後の方針を発表するとき、過去の発表を読み返し、現在の状況を考え、将来に向けた方針を皆にわかるように5分にまとめ、100回くらい練習し、ボイスレコーダーで聞き返し、内容に違和感がないかチェックしました。

嘘も100回言えば本当になるということわざがあったように思います。 まさに100回唱える中で嘘っぽい将来方針も本当に思えてきて、気が付けば実現しています。 もともと嘘を言うつもりはなく、進むべき方針を練り上げているのですが、日々の会議の提案内容でもペーパーにして100回読んで腑に落ちるかどうかなどしていません。 だから総会のスピーチは自分の考えを練り上げ実現に向かう良き方法でした。

総会のスピーチは会社の方針ですが、自分の人生について真剣に考えてきたかと自問するときがあります。 私は現在65歳、90歳まで生きるとして後25年、子供が生まれ社会に出るくらいの期間が残っています。 誰でもそうですが毎日が未知の経験です。 私は今日65年142日目の日を過ごします。 残り25年は約9000日、自分の最終形を考えるようになりました。

最後の日まで何を目指し、そのために何を日々行い、どんな人になって死期を迎えるかです。 今は健康を維持したい、会社に帰属する間は何らかの貢献を果たしたい、その貢献はどのようなことで果たすか明確にしたい(最も会社におられる期間がいつまでかわかりませんが)と思っています。 怖くてペーパーにまとめる事が出来ません。 書いたことが5年で完成すればどうすればよいか? また書き直せばよく企業の長期計画も大抵は5年です。

とりあえず会社での貢献と健康維持を目標にしています。 貢献は日々経営に関わるペーパーを読んでいます。 経済新聞で紹介された経営に関する書籍などを読みます。 今朝なら5時に起きて、少し運動して体か温まれば数ページ読む、体か冷えれば少し運動するを繰り返します。 これから寒くなってもなるべく暖房を入れず、部屋を閉め切り体を動かして室温を2度上がるまで筋トレするなどです。

このような読書は実務ではほとんど役に立ちません。 しかし物の見方や頭のトレーニングになります。 65歳を超えて身につくか?と思う方がおられるでしょうが役に立たないけど身につきます。 腹筋は割れてくるし、腕は太くなります。 力仕事をすることがないので役に立ちません。 問題の中性脂肪値は下がります。

モノクロ写真のような日々ですが、かすかな希望と勇気が湧いてきて残り9000日への恐怖心が薄らいでゆきます。

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[未分類]

[習慣化]

営業のコツ

 営業職員の採用面接でよく質問されることに営業で成功する方法を聞かれます。 人対人の仕事ですからコミュニケーション力は当然ですが、まさか当然の答えを期待して聞かれているわけではありません。 当社にもスーパー営業の人は何人かおられ、みな普通の人です。

質問の趣旨として営業の奇策を求められているのかと思います。 そんなものは無いと思っています。 言葉にすれば誠実で信頼されるよう努力するとか、余計なことを言わないとか当たり前のことになってしまいます。

その中で最も当たり前なことは自分の職務を忘れないことでしょうか。 成績の伸びない営業の人でせっせと訪問を繰り返し、販促ツールを配ります。 どこかの宣伝文句ではないですが『結果にコミットする』ことを意識し続けていない人が意外に多く、そのほとんどが低い成績です。

どの仕事でも同じですが自らのミッションは意識していないと消えてしまいます。 経理の職員は会計ソフトに数値を正しく入力するという作業に多くの時間を費やしますが、本来は税務会計として正しい処理を行い、問題点を洗い出すというものです。

人は自らの役割でなく作業や方法に意識が行きがちです。

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[習慣化]

前向き

最近の会話を振り返ると自分の発言が後ろ向きであることが多いように思いました。 毎日誰かと話をして、自分が話したことを振り返ると緊張感を欠いています。

前向きの反対は後ろ向き、とは単純に行きませんが入ってくる情報が少なくなると少ない情報で事を見通そうとして短絡に否定したり肯定したりします。

情報が少なければ効果的な質問をすればよい事です。 その答えが情報を厚くしますが、会話は相手のある事、質問すれば会話の相手はこちらの質問の意図を推し量ります。 相手は会話の中で話した情報に不備があると感じるか、質問に沿った視点が欠けていたと反省するかは相手次第ですが、『情報が少ないですね』と言ってしまえばどのような情報が欲しいのかわかりません。 会話は問題解決なのかあたらしい提案なのかテーマがあり、話をするからには思っていることを実行したいと思っている場合が多いです。

よく言えば相手は前向きの会話をしているわけですが、会話を受ける目的は相手の意図をくじくのが目的であることは稀です。 提案された内容を理解することが話を聞く最初の目的、理解して納得するかどうか、さらに実行するかどうかは次の課題、納得できないことは圧倒的に多く、その時後ろ向きの会話になっています。

最近後ろ向きになった自分を修正する方法として後ろ向きの答えをしない、質問を工夫する、評価や安易な決定をしないことを心がけています。

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[意思決定]

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それは言い訳か?

日々の生活でいろいろな課題が現れ、それについて考えます。 私の場合、椅子に座り考えていると煮詰まってきて何も浮かばなくなり、何か軽作業をしながら考えます。 料理を作るとか掃除をするとかです。 なぜ作業をしながら考えるのが良いのか、少し血圧や心拍数が上がり頭に血が巡るからかなどと考えますがよくわかりません。

考えて答えの出ない日々が続くと考えてはいけないことや意味のないことを考えるようになり、それらは当然課題の解決に結びつきませんから『解は無い』という結論に結びつきます。

『それは言い訳か?』自問します。 この自問は強力です。 答えがないことを納得するために解を導かない方法を考えてしまうのです。 つまりは言い訳を考えていて、全く意味はありません。 そのような考えの人を何人も見てきました。 『どうしよう』を繰り返し何も決められません。 もちろん不都合なことは全部他人のせいです。

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[生活]

[習慣化]

shopping

買い物は楽しいものである。 本当に欲しいものが手に入ったときはワクワクします。 おそらく誰でも同じだと思います。

私の友人は特に好きで、ネットで調べ、ショップで現物を見て回ります。 身に付けるものを見ることが多く、 服は売るほど持っていて靴はムカデじゃあるまいしと思うほど持っています。 そしてお金がないとぼやいています。

お金の機能の一つは交換価値を担保すること、物を買わないのであればお金は必要ありません。 なんでも盗むことができるドロボーはお金をあまり必要としないでしょう。 宅急便の来ない辺鄙なところに住んでいる人もお金はさして重要と思わないかもしれません。

私はドロボーを生業にしていないし、宅急便の来るところに住んでいてネットショップで買えばすぐに商品は届きます。 徒歩圏にデパートもあり、電車で数分圏には関西を代表する繁華街もあります。 物を買うことに関しては恵まれたところに住んでいます。

子供のころから質素な生活をしてきてお金を使う、モノやサービスを買う習慣が乏しい生活感が染みついています。 ありていに言えばケチ、よく言えば質素を美徳としていて地下鉄も二駅ぐらいは歩いて行きますし、近所の事務所に郵便物は自転車で届けたりします。 タクシーに乗ることはなく、健康管理に注意していますが医者の診察もなるべく受けないようにしています。 住居費を除けば月に5万円もあればタバコも買って生活できます。

10年以上前に3年ほど迷って自転車を買ったことがあり、今もその自転車に乗っています。 タイヤはもちろんチェーンやスプロケット(チェーンのかかった歯車)も交換して乗っています。 その時、買うことを迷ったのは仕事で使う自転車をサイクリングにも使えないかということでした。 プロショップに行き、100万円くらいの自転車に試乗してあまりの軽さと走りやすさに感激しました。 しかしそれぞれのパーツの耐久性は低く、距離を走れば頻繁に高額の部品を交換しなければならず、盗難にも気をつけねばならないなど購入対象から外しました。

プロショップをやめ元プロショップの店長に相談に行きました。(プロショップは4軒ほど回りました) その店長が普段乗っている自転車が置いてあり、結局それを買いました。 価格は3万円、一応サイズもあり、フィッティングもしてくれました。

ある上場企業の部長にこの話をしたら『なんでそんなにけち臭い』とバカにされたのを覚えています。 しかし10年以上使っているわけですから買い物としては大成功だったと思います。 このことを思い出して自分も買い物は好きで何軒も見て回る癖があるけれど買うというより探すこと、持ち物にするなら最適のもの、毎日違う服を着るよりかはお気に入りの服を何着かとっかえひっかえ着られなくなるまで着ることが習慣だと思います。

家に物は少なく、引越しは楽にすみます。 気が付けば物を捨てるようにしています。 それでも物が増えているか減っているかといえば微妙なところです。 貰うものもありますから。 物が少ないとシンプルな生活を送れるように思います。

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[習慣化]

知能

前2回のブログは人格を鍛える方法、そのために作業に専心する方法を解説しましたが、いったい何が言いたいのかわからない方も多かったでしょう。 ブログは公表しているとはいえ私的な日記、自分がこうだと思ってもうまく表現できない場合もあれば矛盾した考えが心の中に併存しているときもあり、ご容赦ください。

AIが話題をにぎわして久しいですが、AI以外のソフトウェアとの違いはインプット・アウトプットの関係でも説明できると思います。 通常のソフトは指示された通り結果を反映するものに対してAIは莫大なデータを参照しながら結果を導き出すもので、演算ではなく判断がなされる点です。

先日AIのベンチャー企業の幹部がAIソフトウェアのOSにあたるソフトを10日で書き上げ、無償公開したことが新聞で報道されていました。 AIソフトを構築するうえで利点はデープラーニングでいらない情報を捨てる機能が話題となっています。

人も同じ、頭の中でいらない知識、考えが浮かんで消えることを繰り返していますが、いらないものがなくなれば結論は早く導かれます。 このいらないものを頭から消し去る方法として作業に専心する、しかしテーマは考え続けるという事です。 強い意志があれば強制労働下でも考え続ける事が出来ます。 児童心理学者のビクトール フランクルはアウシュビッツの収容所で多くの事を考え、解放後優れた論文を書いています。 散歩しながら考えるのは欧米人の逸話としてよく語られています。

先程のベンチャー企業の研究者が10日でAIのOSを書き上げたのは長期にわたり考え続けていたという事でしょう。 おそらく優秀な研究者で、いらないことを自動的に頭の中から排除出来る訓練を積んでいるのでしょうが我々凡人はそうはいかず余計なことを考え、余計なことで自らの知能を満たしています。 しかし生きていくことや人格を鍛えるのは知能を停止するのではなく本来の課題に知能を働かせることです。 知識偏重の考え方は頭の中を辞典化して創造性を阻害するかもしれません。

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[習慣化]

作業

前回の記事で人格を鍛えるために作業に専心すると書きました。 なぜ作業に専心すると人格を鍛えることになるか、どのような作業が良いのかを話題にしたいと思います。

人は何かを考えねばならないときに当然いろいろと考えます。 結論は一つ、考えは100通りみたいになります。 つまり99通りは選択されない考え、その99通りのうち選択してはいけない選択肢は多くあります。 邪悪な考え、効率の悪い考え、常識的でない考えなど組み合わせで考えてゆくと排除すべき考えが想起してしまいます。

結論は出さねばならず、出した結論に沿って行動を伴います。 もちろん何もしないという結論もあります。

些細な事でも悩んでしまいます。 例を挙げると昨晩通帳を記帳し、ちょっとした雑貨を買おうと思いつきました。 昨晩は雨がやんでとても寒く、帰宅した18時30分に思い出したのですがもう一度出るのは面倒でつらいと考えました。 おなかが空いていたのでとりあえず晩御飯を食べることにし、晩御飯の準備をし食べるか行こうかと迷い続けます。 食べ終わった直後、出かけることにしました。 ここでの唯一の結論はやらねばならないなら今時間があるので今であるというのが合理的な判断です。 寒い、面倒という迷いの原因となったことを捨て去ればすぐにコートを着て外出できます。 明日の予定を考えればわざわざ出向くより明日ついでに寄れるのですが、わざわざという徒労ではありません。

このように判断すれば大抵のことはすぐに99通りの選択肢は排除出来て行動に直結します。 たまたま晩御飯を終えてほかの優先すべきことを思いつけばそれを優先すればよいだけのことです。 選択しない99通りを考えてしまう時間の節約もありますが、選択しない99通りの方法は言い訳を考えているのと同じで生きる姿勢を後ろ向きにします。 日々の生活、たいそうに言えば人生には簡単に決めてしまって『しまった!』という事はたくさんあるでしょう。 私にもそのような経験があり、今思い返してその誤った判断はとうぜん不要な99通りを選択したことになります。

意思決定は自らの価値観に照らし合わせ、時々の目標に向かったものですからよくよく考えれば不要な99通りは排除できます。 後で考えて『しまった!』という判断は損得勘定など自分の価値観と違うバイアスがかかっています。

つまりはたいていの意思決定は複雑なものでも一意に決まり、たとえ損と思える事であっても自分の価値観に忠実でありたいと思うものです。 自分の価値観からずれるのは人から聞いた自分の価値観と異なる考えに基づいていますからその排除は無駄な考えを避けるため目先の作業に専心して暇にならないことと思います。

昔から『好事魔多し』と言いますが私は無駄な時間は魔が多いという事でしょうか。

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[習慣化]

現場と相談役ブログ

このブログの記事も1000を超えました。 訪問者累計は35000人、決して評価が高いわけではないですが、くじけず続ける事が出来ました。 これからも会社に帰属する限りは続けてゆきたいと思いますが、そもそも医療・介護の仕事をしていて経営の役割を担う立場ですから本音の話が面白いわけではないと思います。

医療・介護の現場では『まさか!』という話題がたくさんあり、私も聞き及ぶことがありますがブログで公表するわけにはゆきません。 政治の話、宗教の話、見方によっては差別ととられかねない話は極力排除すると全く面白くない日常を過ごす自分が見えてきます。

現場の面白いエピソードは現場に関与しない身としてはエピソードであって自分の経験ではありません。 つまりは経営の仕事は地味でつまらない判断業務の連続という事になります。

それでもいつどのような判断を迫られるかわからないのであらゆる問題を想定し(大抵悪い事が起こったときの想定で例えば資金が底をついたとかです)、対処を考えます。 殆どの想定は現実に起こりません。 悪い想定ですから起こらなければそれに越した事は無いのですが、考えておかねばなりません。

最近の大企業の不祥事を見ていて会社のトップは知っていただろうことを知らなかったと謝罪会見で公言する社長がおられます。 実際その不祥事の実態を知らなかったのかもしれませんが、結果的に業績を大きく落としていて、ある会社は存続できないようになっています。 そんな大きなリスク抱えながら想定しなかったのか、想定しなかったから不手際が目立ったのか、中小企業の経営者には大企業の内情は計り知れません。

当社のような小さい会社であっても170人の職員が社外との接点を毎日10件もてば1700の接点が生まれます。 そこで大なり小なり不手際は発生しているはずで、不手際が判るかどうか、わかった時点で問題となるかなれば私のところまで聞こえてくるかなどです。

どの現場にもヒヤリハットの報告ファイルがあり、どこまで記載されているか疑問です。 そもそもヒヤリハットの基準もあいまいです。 不手際が総て明らかになり、原因究明と対策が完全に行われるとよい会社になっていくのですが、これも地味な仕事になります。

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[価値観]

[習慣化]

諦めの納得

なんとも意味不明のタイトルです。 自分が諦めの悪い人間であることは欠点か長所かと考えることがよくあります。 そのような気質を生かすか生かさないかで欠点にも長所にもなってゆきます。 問題は程度の話、諦めが悪いというより執念深い事例として前職で役職上位者で評価できない人が私が仕事に集中しているときに頭をはたいていきました。 集中していただけに何が起こったかわからず、状況が把握できて怒りがこみ上げてきました。 結局何もしなかったのですが、その人とは以後の関係が改善する事は無く、約30年経過した現在でも思い出すことがあり、同時に怒りがこみ上げてきます。

もし今、眼前にその男が無防備で現れたとしたら仕返しとして殴るだろうか、過去を忘れ昔話をするか、どちらもないでしょう。 私は仮に挨拶を受けたとしても完全に無視するでしょう。

誰でも再現したくない記憶をもっています。 それは完全に忘れてしまう事が将来に向け、その人の幸せにつながることだと思います。 だからそもそも30年も忘れられない憎しみの記憶をもたなければよいわけですが、その時はかっとなって記憶が刷り込まれてしまいました。 その後30年間たまに再現されたことについては幸福のマイナス要因となりましたし、その男と以後うまく付き合えば会社での人間関係は潤滑に言ったと思います。

しかしその男は内容の乏しいアクションが派手なだけの人間だったので、その男と関係を円滑に継続したことにより人として得るものは少なかったように思います。 つまり自分にとってどうでもよい人間との関係で大事な記憶領域を長期に使ったことの喪失は計り知れないと思います。

そもそもバカ、もしくはバカげたことに対する憎しみは善悪の問題でない場合が多く、憎しみを抱かない価値観を身に着けたいものです。 私はこのようなバカげた感情のゆらぎ、それが憎しみに関わることであれば紙に鉛筆で克明に書くようにしています。 1つの事案を1時間かけて克明に記述すればそのようなこと自体がばかばかしくなってきます。 忘れようと思うより、克明に思い出してそれがつまらぬことであると認識に導くことが諦めの納得ではないかと思います。

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