監査役BLOG

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社員教育

[社員教育]

考える

 会社の人間にほー「本を読め」といつも言っています。 何のために、知識を得るために、答えもなく言っていました。

だれでも何か考えることはあります。 考える行為は大抵その先に意思決定が潜んでいます。 何かを決めるにあたり、自動的に決まることは考えません。 勤めている人は朝会社に行くのは当たり前、そこで今日は会社に行きたくないなどと悩むことはふつうありません。

ある更生施設の運営者の講演会で施設に入所する元暴走族の少年の喋る単語が数語しかないという話をしていました。 施設に入所する少年の母親が面会に来て対応した少年が施設長に『とっぽいおばさんが来た』と言ったそうです。

この少年の使う単語が千語としてその多くは固有名詞でしょう。 何かを決めるときに多くの情報を言葉に置き換えなければなりません。 先程の例では『見慣れない女性がだれだれに面会に来られた』となり表現として具体的になります。

システムエンジニアの常用する単語や服飾デザイナー、弁護士、医者等専門性の高い職業になれば専門用語の単語が会話に数多く登場します。 元SEと話をしていて、○○の『アルゴリズムは』となったとき頭の中で?markが湧きたちます。

それぞれの単語は意味があり、抽象名詞であれば複数の意味をもつ場合が多いです。 概念と言った方が良いでしょうか。

うまい文章を書く人は最適の言葉を駆使して表現し、読み手は一度で正確に書き手の意図を認識し、しっかり記憶します。

本を読むとはいろいろな情報を上手く整理し、引き出せるようにすることだと思いました。

私は最近映画をよく見ます。 何かを考えるとき映画のシーンがよみがえります。 映画の中で演技者は話すので映像だけでは伝えられないことを会話で伝えます。 全く知らない言語圏の映画を字幕を読まずに見ていてもだいたい筋は読めますが、演者は鑑賞者が混乱しないように解説をセリフの中に織り交ぜます。 3流の映画にストーリーは複雑で映像からわからないところを出演者に解説させるシーが多く見られます。 それでもそんなに複雑なことは映画になりません。

ある知性溢れる人が自滅してゆくストーリーでは主演者の演じる心の葛藤を一定のパターンで表現し、実際とは異なる解釈になっている場合も多いと思われます。 意図が伝わらなければ映画にならないわけですから。

脳の中の処理を考えれば、映像付きの概念などは記憶メモリーを消費する割には複雑なことを蓄積できず、やはり文字に(映像なし)よる情報の方が考えることに適しているように思います。

本を読むと言葉とその概念が蓄積されて問題の分析や組立等に能力を発揮できることになります。

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[社員教育]

躾け

 会社で職員を観察していると基本マナーが躾られていない職員が見受けられます。 私の世代から見れば人格を否定されても当然と思える行為です。 率直に『あほ!』と感じます。 ひょっとしたら中には会社に大きく貢献している人や優秀な人がいるかもしれません。 そのような『あほ!』がいる組織の長は何を考えているのかと思います。 『あほ!』いない組織は躾の注意をしているかというとそうではありません。 仕事ぶりに緊張感があり、周囲の人はそれなりに気を使います。 おそらく『あほ!』のいる組織の長の仕事ぶりにそのような緊張感が無いのでしょう。 職員の自主性や職場の自由を醸し出そうとしているのでしょうが、『あほ!』を野放しにすれば『あほ!』が定着して、他所で通じない人間、人格を評価されない人になってしまいます。 『あほ!』を野放しする組織長に『あほを放し飼いにするな!』といえばパワハラと言われかねず、言葉の選択に苦慮します。

貴方がいないときにあなたの職員の私語が聞こえてきます。 『職場の空気として少し程度を超えているように思いますが、あくまで私の感覚です。』なんでまどろっこしいことを言ってる自分に腹が立ち、『あほにあほと言ってどこが悪い!』と開き直り、そもそも言うべきは相手の品性や人格向上のためで自分の怒りの発散ではないと考えれば奥歯にものを挟み、まどろっこしい物言いを工夫し、誠実に貴方のためを思ってお節介していますという態度で言うべきかもしれません。

残念ながら私がそれをすると付き合いの長い人には嫌味を言われたと思われるでしょう。

それなりの年代の人、特に管理職で見られることですが、仕事をしないことに長けている人がおられます。 恐ろしく長けています。 なぜならそれで今まで生きてこられたからです。 なぜそこまで仕事をしないのか不思議です。 ささやかな努力をし、そのような人は能力が低いのでささやかな仕事を行う事が全く仕事をしない姿勢を貫くより楽な生き方に思えるからです。 学生時代、テストで恐ろしく努力してカンニングをする人がいましたがそれと似ています。 勉強するほうが楽なのですから。

その様な管理職は長年生きてこられたから今更価値観を変えることはできません。 会社を辞め、市井で何も価値を生まない人生を送ればよく、そのような生き方を私は否定しません。 しかしわざわざ当社に入社して、絶妙の演技で仕事をしているふりをし、あらゆる責任から逃れようとする人は迷惑なことで、あらゆる仕事とその責任から逃れる域からの延長には他人に迷惑を掛けない価値観が含まれているはずだからです。 採用面接で見抜けなかった自分に腹が立ち、私の場合『あほ管理職』として放置するのではなく人格否定をあらゆる言葉を駆使して行い、苛め抜くことになります。 本人は長い人生でそれにも耐えてきたでしょうから根くらべでしょうか。 成長を期待することは枯れ木に水をやるよりむなしいことです。

これも管理職の躾の問題で、恐らく前職でも迷惑をかけ続けたことでしょう。

躾は社員教育で、との考えがありますが仕事に対する姿勢や価値観を教育で行う事は効率が悪いと考えています。 私の躾は経験から教えられるものではなく刷り込まれてきました。 左利きの私は父親に毎日殴られ怖い父親の前で右手で字を書かされ、箸を持たされました。 子供のころは虐待でない範囲であればそれもありでしょうが、仕事をしない管理職を殴りつけるわけにはいきません。 言葉の暴力も使えません。 その様なことをすればこちらが躾けられる側になります。

しかし本人の価値観の問題ではなく社内で害毒を静かに垂れ流していきます。 害毒は元から断たねばなりません。

 

 

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[社員教育]

考えない人たち

 営業の新人教育である人が教えると教えられた人は実働して実績が良く、別の人に教えられると実績が上がらない傾向がありました。 その理由は教えるのが上手い人は教え方がうまいからです。

その後上手い人に教えられた人はずっと実績を上げるかと言うとそうではありません。 教えるのが下手な人に教えられた人はなかなか実績が上がりません。

私が新人営業を教えたことがありますが、その人はたまたま優秀で実績を上げ続けました。 ある時その人は私から何も教えてもらわなかったと言いました。 それを聞いてショックを受けたのですが、たぶん何も教えなかったのでしょう。 次にその人が私に言ったのは何時も謎かけをされたことです。

私は謎かけをしているつもりはなく、どう思うか答えの出ない質問をしていたように思います。 質問された方は何故それを聞かれたのか考えます。 答えのない問いは仕事でも日常でもいくらでもあり、答えがなくても不自由なく行動できるのは考えても仕方のない事なのでスキキライなど感覚で判断して選択しているからです。 選択肢のどれを選択しても正しい、誤り、損得などは無いわけです。

営業所の規模は何人がふさわしいか、みたいな質問です。 当社でも人数により業績に傾向があるかどうか少ないデータでは結論は出ませんが、それを常に考えているとこのような評価方法をとればこの人数規模が一番効率が良いなど見えてくるかもしれません。

前出の教えるのが上手い人は単純な事実、この処理はこのようにするとか再現される作業の処理について説明が整理されているだけで、なぜそれがよいのか教えていないため教えられた人は作業方法が変わったときに変化についてゆきにくい、つまりは教えられた人は保守的な人間に育て上げられたことになります。

私ならそのように教えられても元々天邪鬼なのでどうしてそうなのか考えてしまいます。 仕事に関わる法律、競争関係、内部環境(作業の一部が分業されたり機械化されるなど)変化します。 そして変化についてゆけるのは効率的に答えを教えてもらった人より謎かけされた人のようです。

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[採用]

[社員教育]

教える事

 採用面接で『どのような会社で働生きたいですか?』と質問します。 応募者の方は『風通しの良い会社で働きたい』との答えが多いです。 『『風通しの良い会社とはどんな会社ですか?』と具体内容を求めると『先輩や上長が教えてくれる風土』と返ってきます。

初めての仕事で解らないことは多くあると思います。 『これは何だったかな?』と思い出せないときにそばにいた先輩に聞けば便利です。 大抵のことは以前に教えてもらっているはずで同じ質問をしているわけですが、営業職に限って言うと皆甘く、答えを教えます。 教えられた人はおそらくまた同じことを聞いてきます。 製品の寸法や重量などはカタログやネットで調べればわかります。 すぐにわかることを先輩に聞くのは先輩をカタログかスマホ程度に思っているわけで失礼極まりないです。

このような考え方の人が社内にも数人おられます。 数が少ないので残念ですが、私と同じように対応していてなかなか悪評です。 そもそもそのような人には聞きに来ません。 大抵は管理職なので質問しない代わりに判断を求めてきます。 なぜ判断を求めるか逆に質問すると求めてきた人が何も考えていない、という事がすぐにわかります。

そういった人が何か判断しなければならないときに何かで知った方法とか思いつきに固執することがあります。 たまたま結論を見出すと元々考えを巡らせないからそれが唯一絶対になってしまうからです。

このような場合に人の考えを聞かないことに対して『素直でない』と評価されますが、『考えない人』との評価が的を得ていると思います。

同じ現象を別の事例で見てみましょう。

当社の営業職では試用期間の3カ月、一人の先輩に付いて仕事を学びます。 そして3か月後一定の商権と担当エリアを任され営業の実働に入ります。 ある時成績に良い営業員の指導をした人が同じであったことに気が付きました。

教えた人の教え方が『上手い』と判断されます。 教え方の上手い下手はあります。 ではスポーツで言えば教え方の上手いコーチに教えられた選手はすべて上位に行き、下手なコーチに教えられた人は補欠にしかなれないことになります。 下手なコーチに教えられて上意の成績を残した選手もたくさんいて、彼らはよく考えます。 たまにはコーチにつかずに有名選手になった人も多くいます。

営業職の話に戻り、教えるのがあまり上手くない人に教えられ、その後成績が伸びなかった何人もの人が別の人に教えを受けて翌月から好成績を上げることが出来ました。

初めに良い成績を上げたる事が出来た人は営業を取り巻く環境が変わったときに上手く成績を上げられるかどうかわかりません。 長い間不振に苦しんだ人は環境変化に強いかもしれません。 その違いは自分で考えられるかどうかです。

そこで私のように教えない指導をするのですが、評判は悪いです。

ネット環境が充実して、情報が豊富であり、アクセスも容易になりました。 ダイエットの情報を検索すれば学術的な情報から製品紹介まで出てきます。 ダイエットを考える人はいくつかの情報から選択するだけです。 肥満はオーバーカロリーが原因で、基礎代謝以下のカロリー摂取では痩せざるを得ません。 多くの情報はこの基本を隠してしまい、カロリー摂取を減らせば栄養が偏るとか○○を摂取すればカロリー吸収が減るとかに惑わされます。 何が本質か? それさえ外さなければ営業でもその他の職種でもなんとかなってゆくものです。

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[社員教育]

理系

あるメガバンクの担当が新人で1年以内に替わります。 交代のあいさつに来られた時に出身大学と学部を聞くと理系がほとんどでした。 銀行で理系はマイノリティーかと思ったら最近入行した人の過半数が理系の出身とのことでした。

社内の会議で何か問題解決に向けて協議しているとき、『課題は何か? 解決策は何か?』と私が聞きます。 『解は見つかっていない』と答えが返ってきます。 初めはそれほど違和感がなかったのですが、だんだん使い方に疑問を抱くようになりました。

『解』とは何か、解答、解決策の事でしょう。 質問に応える回答ではなく疑問の解決策が解答、つまり解いたもの、少し飛躍すれば問題に対して明確で唯一の正解、真理などのイメージが付きまといます。 さらに飛躍すればこれを使う人は課題の定義が厳密であれば答えは一つという事でしょうか、まさに自然科学的です。

一方文系の発想、解は往々にして複数に及びます。 文系社会においても解答の厳密性を求める法律の世界で、同じ訴訟で裁判結果が正反対になることがあります。 判事は吟味に吟味を重ね、判決に至る論理構成は整然としているはずです。 同じ事件と証拠をもとに同じ法律と過去の基本判例に照らし合わせて正反対の解が出てしまう、それが社会科学の特徴です。 見方を変えれば多様な要素の中であるべき結果を推定することになります。

一方自然科学は多様性を排除し、温度、気圧、時間など測定可能なものを一定にした再現性を求めます。 先程の裁判の例では不可能なことです。 もちろん自然科学でも多様性を排除できないもの、地震の予知、天気予報などは厳密な再現性を見出せません。

日常の社会現象、例えば会社の経営判断などがより自然科学的になれば解は精度を増し、気が付けば会社の社長はAIが完璧にこなしていることになるかも知れません。 会社経営は気象や地震より多様性はないもののかなり単純です。

最近社会科学や人文科学の人気が低迷し、これらの学問は無くしてしまえばよいという乱暴な意見も聞かれます。 文学作品の解釈に数学を応用して理系のツールを使ってみるとか学問領域の融合がより進むのでは、もしくは私が知らないだけですでにわれわれの年代が学んだ学問から想像もつかないことが実際の研究の現場で起こっているのではと想像します。

経営者が総て文系の会社と理系の会社のどちらが生存率が高いか調査を見たことはありません。 理系中心の成長企業の取締役会が経営判断の根拠をすべて関数で行っているわけでもないでしょう。 理系の発想をうまく応用できるかが良き判断の根拠になると思います。

一方で古典である孫子の兵法やドラッカーの考えが経営の現場でまだまだ主流であることも事実です。

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[社員教育]

守破離

会社で普段接する機会の多い人は幹部の方です。 一緒に仕事をさせてもらっていて、その人と出会った時期まで遡って思い出してみるとずいぶん変わった、つまりずいぶん成長したと感じます。 殆どの人にそのように思います。

組織で仕事をすることは組織の死後に関わる情報の海に漂うようなもので、それが食品分野であれば食品の情報を、金融であれば金融情報に数多く触れることになります。 付帯して組織の戦略や人間関係の情報も多くあります。

仕事をしているとこれら情報に触れ、経験を積み、小さい判断から徐々に大きな判断を任されるようになります。

日々新しい体験なのでたいていの人は先輩や上司を見習います。 そして上司や先輩のやる通り判断することを重ねると慣れてきます。 求められる判断の中に前例とは少し異なる要素が加わった判断を求められることがあります。 応用問題で、その時見習うべき経験値がなければその人なりの考えで修正された判断を行います。 応用問題をこなしてゆけばやがては先輩とかなり異なる行動パターンが現れ、やがてさらに進化して先輩や前例と違う判断・行動になってゆきます。

古典芸能の世界で言う『守破離』はこれにあたり、守り、破り、離れてゆく成長過程を表しています。

一人もしくは数人で構成される芸能の世界は演題の解釈が大きく変わることはありません。 事業会社ではその事業を取り巻く環境が変動し、昨日正しい方法が今日通じるとは限りません。 そしてたいていの事業は組織で運営され、社外の組織とも連携しています。

このように考えると守破離はビジネスマンが個人としてわきまえなければならない行動パターンをマスターするうえでは有効ですが、組織としてミッションに向かうときに有効なものなのか、守破離に重きを置いて大変よくできたビジネスパーソンは信頼でき、有能であるでしょう。 そのようなビジネスパーソンを何人もめぐり合っています。 そしてその人たちの多くが一人で動いていて、集団を動かしているイメージが乏しいのです。

気配りができて、部下や取引先の信頼も厚く、会議で適切な提案もする経営者がいて、その人がみんなの目標になり、リーダーシップを発揮しうるか、できる人は自分より劣る人に任せるより自分でやってしまうでしょう。

そして大変忙しくなり、孤独になり、年老いて退任されます。

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[社員教育]

仕事が早い

日本経済新聞に『仕事ができる人の仕事のやり方』についてhow to 本の広告が出ていました。

ポイントは仕事が入ったらすぐに取り掛かること、でした。 営業であれば依頼が来れば1%でよいから直ちに着手するというものです。

そのこと自体は全くその通りと思います。 私の場合、やりたいことをメモ用紙に書きだし、優先順位をつけて実行してゆきます。 書き出すときは作業の難易度、量、組み合わせなど無視して書き出します。 そして一番最初に取り掛かることを決めてすぐに取り掛かります。 10日予定表を作り、10日の予定も組みます。 こちらは習慣にしていることを項目として列記し、実行したものにチェックしてゆきます。 毎朝メモ用紙に項目を書くのは予測していなかった作業をこなすこと、10日予定表の項目で出来ていないこと等です。

例えば10日予定では筋トレ項目がありますが、その日の体調により3項目やるとかです。 ある程度全力で項目をこなして疲れてしまうともう何もしません。 昼過ぎから家に戻ってぽやーとしていたりします。 朝5時から起きていることが多いですから3時にその日の活動を終えても10時間、もちろんその時間内に食事も摂りますが、8時間は活動しています。

紙に書いた項目は自分への約束、程度の差はあれ義務感が湧いてきます。 何年かこれをやっていると思わぬ成果、例えば腹筋の形が出てくるとか、を生みます。

書き出した項目には目的があります。 健康でいたいから筋トレをする、ダイエットをする、などですが達成すべき目標は決めていません。 例えばダイエットは何キロ痩せると書いていますが、毎10日予定に書いていて意味をなしていません。

明確で必要に迫られた項目の設定が望まれますが、自分を追い込まなくては必達目標はなかなか設定できません。

一つ威張れるとしたらここまでの方法を自分で考えたこと、何年も改善しながら実行していることでしょうか。

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[社員教育]

シンプルな営業

 小説家で三浦しおんさんの作品を続けて読んでいます。 最初に読んだのが『まほろ駅前多田便利軒』、三浦さんは1976年生まれですから私より33歳若く女性、私は小説が好きでよく読む方だと思いますが30歳以上若い作家で女性の作品を読むことはほとんどありません。

 まほろ駅前多田便利軒はいわゆる便利屋を主人公として、依頼主の要望をこなす様子を作品にしています。 便利屋は仕事の多くは依頼主の自宅内に入ってする仕事、依頼主のプライバシーに入り込むことが多く、短編集としています。

 他人のプイバシーは何であれ重たく感じるもので、短編で軽いタッチで読者の負担を減らせています。 読者の負担が重くなりすぎると喜劇も悲劇も受け流せなくなるでしょう。

 登場するのは多田と行天の高校が同級生の30男、どちらも男性です。 多田は結婚生活の破たんから立ち直るために会社を辞めて便利屋を立ち上げ、ストイックに仕事に打ち込むことで過去を洗い流そうとしています。

 行天は直観に従って生きる変人で、仕事はいい加減、しかし真実を瞬間に見通して余計なことを言ったりやったり、天才肌の変人です。

 話は変わりますが、会社の営業ミーティングで各営業職員が毎週どのようなことを目標にして何をし、どのような結果を出したか、報告するときに他の営業がコメントします。 こうすればよかったんじゃないか、相手の発言はこういう意味ではないのか、質問と同時に評価がなされます。 質問する人は自分も同じ成果を期待できないか自分中心で考えています。 人の行動と良い結果は応用できるかもしれないので会議の目的でもあります。 評価はよくある『営業鉄則〇〇、これで営業が決まる』的な本のようです。 他人の行動と結果について無責任なことを偉そうに言う必要がどこにあるのかと思います。

 私は聞き流すことにしていますが、得意がって言っている話が聞こえてくると正直気分が悪いです。 もちろんとんでもない勘違いはあるものなので私の場合『それはこうこうということですか?』と質問します。 しかし質問する前に獲物を見つけたハンターのごとく突っ込みを入れる輩がいます。 当然成績はあまりよくありません。

 多田便利軒の多田は他人のプライバシーの最深部に入ったときに評価にあたることは一切言わないようにしています。 それが営業の本質、著者は顧客の最深部に潜む問題を瞬時に感じ取り、とんでもない言い回し、茶化したり、露悪的であったり、で言ってしまったり、黙っていてその問題が顕在化するような行動にわざと出たりします。 もちろん作品だからできることで現実にそのようなことをすれば多田便利軒は廃業になるでしょう。

 作品で多田は凡庸で誠実な人として描かれています。 その多田も行天の天才的直観と同じ評価を抱くときがあります。 著者によって考え抜かれた行天 の直感が描かれますが、書かれている状況だけから真実にたどり着くのは現実的ではないでしょう。 そんな人がいたらシャーロックホームズや相棒の杉下右京、スティーブジョブズ、ビルゲイツのように歴史に名を遺す人たちのようにそれぞれの分野で歴史に名を残すと思います。

 真実を瞬間に見抜く卓越した洞察力はそれを利用できて大きな成果に早くたどり着くわけで、多田はこの先便利屋を一生そつなく続けるでしょうし、行天が便利屋家業を続けるなら全国チェーン展開を図ることでしょう。

 作品と現実の会社の営業ミーティングを比較してわかることは他人の評価は自分にとっても 相手にとってもそれが真実に近ければ意味がありますが、良い結果を生むという意味では言わないに越したことはありません。 大きい成果を生むために因果関係の真実を探ることは有効ですが、真実をもとに評価につなげられることは大変まれであると経験上思います。

 そもそも他人の評価で真実を言い当てていると思うことは言われた評価を手帳に書いて10年程度たってから見直して、なるほどその通りなったということです。

 当社の営業職員の成績は標準偏差のカーブを描いて分散しています。 実績を上げる人は転勤になっても実績を上げ、上げない人は転勤になっても担当替えになっても華々しく実績を上げることはありません。

 私はその違いがちょっとした考え方の違いと考えています。 実績を上げる考え方を持っている人は見ていればわかりますし、実績を上げられない人も見ていてわかります。 人の評価は面談して最初の何十秒で決まるという本がありましたが全くその通り、 私にもわかります。 しかしその本は笑顔の効用と作り方などか続き、それが実績を上げるすべてであるかのように書いていることでしょう。 しかし真実はちょっとした考え方の違いによるもので、実績の上がらない人が考え方を変えると笑顔も自然に出てきます。

 会議で人の評価をしたがる人は『お前が売り上げ上がんないのは口角筋がゆるいからだよ、バカヤロー』と言っているようなもので言われた人は何のことかわからないでしょうし、解ってもそうは思わないでしょう。

 実績の上がらない人は自分が実績が上がっていないこと、自分の考え方のどこかが間違っていること、ひょっとしたらどうすればもしくはどのように考え方を変えれば実績が上がるのかわかっているかもしれません。 素直に変えることのできない自分に嫌気がさしているのです。 そしてずれた考え方で歯を食いしばって頑張りとおし、少しばかり実績を上げて自己弁護しています。

 実績が上がるということは毎日仕事が寄ってきて、それをこなすことです。 それが仕事、誤った考え方に固執するため力入れまくり営業をすれば疲れるだけです。 世の中に困っている人がたくさんいて、それを解決できる技量をもった営業がいれば困っている人は頼んでくるでしょう。 そんなに頼まれても真っ貰わないとというのが営業だと思いますし、困っているけどあんな奴に頼めないは営業不適な考えたかに固執していると思います。

 

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人を育てる

 ある有能な管理職の人が標語書いて机の前に貼っていました。 五行ほどの言葉の最後の言葉に釘付けになりました。 『美しいものを見る』と書いていたのです。 釘付けになったのは他の言葉が気持ちを鼓舞するような言葉でしたが、この言葉を書いた意味が全く想像できませんでした。

 その人は多くの部下の話を聞き、適切なアドバイスをし、恨まれるような言葉も必要なら必ず 言います。 それは適切な管理職の行為、部下の職員は彼が話を聞いてくれるので言いたいほうだいを言い、彼はそれが愚痴であっても理不尽な要求であっても、正しいけどすぐに対処できないことでも言い訳することなく聞きます。

 それは必ず他に誰もいないところで行い、説明できない時は『一緒に頑張ってやりましょう』と励まし、相手は感動して最後に泣き出してしまうようなこともあるようです。 いつも笑顔で、前向きで、最後に感動するような結末を迎え、部下の成長を促します。 当社の理念、ミッションを地で行く人です。

 私にはとても真似の出来ることではありません。 人の話を聞くことに膨大なエネルギーを注ぎ、真剣に集中する姿は立派であるとか優れているとかでは形容しがたく、『神』の存在を予感するようだと言えば言いすぎでしょうか。 その人が美しいものを見る、ということをスローガンにしているのです。

 私が最近見た美しいものは奈良興福寺の仏像です。 阿修羅像は有名ですが、他にも素晴らしい仏像が数多く展示されていて、苦悩に満ちた表情、見るものを恫喝する恐ろし気な仏像、慈愛に満ちた表情、ごくごく普通の人の顔、優しがにじみ出ている仏、あらゆる感情を想起する顔が並び、たとえそれが苦悩に満ちたものでもそこいらにいる人の顔でも美しく見るものに語りかけます。

 ある管理職は意地悪な人であっても愚痴ばかり言う部下であっても皆善悪や好悪で判断せず、それぞれの人生が皆美しいものとして接しているのではと想像しました。 それで『美しいものを見る』意味が解けた気になりました。

 本人に真意を聞いたことはないですが、私の想像が強ち外れていないと確信しています。 人がどのようにしてそのような心境になれるのか、神秘であります。 話を何度か聞いてもらった部下は問題行動がなくなり、気持ちよく挨拶するようになり、仕事に励むようになります。 創世記のハリウッド映画で神をテーマにしたシーンのようです。 キリストに触れるものは病が瞬く間に治り、キリストを神として信仰する、そのシーンを彷彿とさせます。

 たいていの人は考える力があり、心の蟠りが解けると自分の職責において最善を尽くすようになります。 最善とは誰にも勝る生産性やパーフォーマンスという意味ではなくその人のその時持てる力を最大限発揮することです。 管理職として最善の方法を支持するのではなく、最善の自分を発揮できる、発揮する上で障害となる迷いなどを取り除くことにほかなりません。

 もし正しいことや効率的な方法を教え、教えられた人が素直に従えば効率が上がりますが、その人の成長ではありません。 自ら考え、自ら工夫する事が出来るようにその人の苦悩を取り去るので、『神』を予感すると言いました。

 そういう意味での『神様』は誰の心にも宿り、他の管理職の人でも同じシーンを感じたことがあります。 話題にした管理職は常に神が見え隠れする、そういう人なのです。

 神の見えざる手に着目すれば『よくできた人』と評されるかもしれません。 ずっと観察して管理職の部下指導という本が書けるかもしれません。 しかしその本は手法や現象を書くだけで神ではないのです。

 多くの人が『神』に憧れ、自らが神に近づくことを願います。 反れば権力欲や金銭欲との二人三脚、神は誰の心にも宿り、表に現れるのは邪念を捨て去った人にのみ現れてくるもののように思います。 そうして神が現れるとその人は他人への憎しみを捨て去ることができ、何事も望めば叶う素晴らしい人になります。 神は天から降臨するのではなく美しい人の心の奥から現れる、だから常に美しいもの、絵画や彫刻などに触れ、自らの心の美しさを保つ必要があるのかもしれません。

 

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[社員教育]

西方浄土

私の従弟、父親の実家の寺の住職をしていますが、会社で講演をしてもらいました。 演題は四苦八苦、当社が医療・介護の仕事をしているのでこのタイトルを選ばれました。

講演内容は小話を重ねるもので、最初の話は『迷子の子猫』の歌の意味です。 迷子の子猫がニヤンニャン泣いて何かを訴える、それを犬のおまわりさんがワンワンと答え、何も通じないというものです。

人はそれぞれの立場で話をして、聞き手は自分の価値観で受け答えする、コミュニケーションは成立しないというお話です。 コミュニケーションの成立という点でよくある話題ですが、例示が犬と猫という点でインパクトがあります。 さすがに和尚、単純な話、単純であるがゆえに普段に意識しないことを印象に残る例を引き合いにされました。

このような難しくない話を自らの体験も織り交ぜてうまく伝えていただきました。 その中で宗教家らしい話として死後の世界の話題がありました。 仏教の世界では死後の世界は西に向かって果てしなく遠いところの浄土にあるとされています。 もちろん科学的に証明された世界ではなく心の内にある世界観です。

それを信じろといっも難しいと思われます。 しかし信じることができたら死に直面したときどれほど救われるか、私は救われると思います。 しかし信じなければ死に際し救われません。

和尚は信じることの方法は信じる以外に何もないと断言しています。 シンプルで腑に落ちました。

職員を管理職に登用する局面で、とても不安のある候補者がノミネートされたとき、心の中で葛藤があります。 代替案がなくそのまま登用して、びっくりするような活躍をする人がいます。 自分の目が曇っていたのか、何度も再考しても訳が分かりません。

私の持論は人は誰も等しく社会的な能力を持っているというものですが、管理職登用では持っている能力が必ずしも発揮できるとは限らないと考えてしまいます。

この局面で『信じるしかない』と誰かにアドバイスを受けて信じられるか、人は日ごろイメージできないことを信じることは難しいと思います。 私はもうすぐ63歳、死との距離は確実に縮まっています。 できれば西方浄土を信じたい、別に他宗教の死後の世界であってもよい、そうして安楽な死を迎えたいとこの話をきっかけとして考えました。 そのため何らかの宗教に入信したいとは思えません。 多くの先人の死生観はこの歳になって受け入れられるようになりました。

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