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価値観

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終末の生活

当社は高齢者介護の事業と薬局を営んでいます。 私は薬剤師ではないので、高齢者介護のお客様に接する機会が多かったのですが、介護用のベッドを使われる方は寝たきりであったり、歩行が困難であったり、そして多くの場合認知症であると思われました。

自分も今年60歳を迎えるにあたり、終末の人生に就いて考えることが多くなりました。 幸い健康にも恵まれ、中性脂肪が高いとか、鼾をかくようになったとか(就寝中のことなので自分では解かりにくいですが)、程度のことが健康障害です。 しかし裸眼で新聞が読めなくなったり、読書の集中力が落ちたり、会話で固有名詞が出てこないなど不便なことも多くなってきています。

それぞれをよいほうに考えれば、走ってでも間に合わそうとは思わなくなり、自分でできない事を他人に潔く任せたり、自分でやろうとして悩むより出来る方法考えたり、忘れてしまってくよくよ考えないようになったり、複雑なことよりシンプルな考えを支持できるようになったりします。

自分ではこの仕事に就いて55歳定年を思っていたのですが、60歳の節目を迎えるに当たり一体いつまで働くのか、それが悩みの一つです。

最近数年間はこっそりと重要な仕事のマネジメント・決定権をそれとなく幹部の人に任し、任された人は最初は恐々権限行使していましたが、その人のスタイルに社内の仕組みが変わり、よほどの問題がない限り口を出さないようにしてきました。

しめしめ、ぼちぼちリタイヤできるか、と思いきや新たな課題が見えてきます。 社内の仕組みが出来て行き、それを運用してどこに進むのか、主には将来展望の話題になります。 人に自転車の乗り方を教え、自転車を与え「さあどこへでも行きやがれ」と突き放した途端、「どこへ行くのですか?」、「俺に聞くな、そんなこと知るか!」、「何言ってるんですか、前に進むために我々はあなたの仕事をしたんですよ」、これには参りました。

屁理屈を考えるのは私の得意技、「そもそもリタイヤを考えている者が進むべき道を示すのか?」、沈黙の後怒り、「あんたの指示に従いついてきたんだ、何を中途半端な」、私の屁理屈は屁理屈に終わってしまいました。

世の中には働きたくても働く場のない人が多くいて、私の場合は贅沢な悩みです。 今までに多くの経営者の人と面談し、今の私よりはるかに高齢で現場の指揮を執っている経営者が多いことに感心しました。 健康状態も私より優れず、スポーツも出来ない人がほとんどです。 それらの会社が結構な利益を計上していたりして、経営者の高齢化が問題にならないケースも多いのか、ぐらいに思っていました。

彼らのエネルギーの根源は負けず嫌いの気持ちや責任感、その年になるまで随分勝負してきて今更勝ち負けに拘るのか、負うことの出来ない責任は重圧となるでしょうが、総てがエネルギーになっているようです。

私の場合、運命に逆らわない事を選択します。 こっそり退場できないなら舞台で踊り続け、機を見てこっそり舞台の袖に寄っていくのがいいように思います。

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