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価値観

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罪と罰

社員が罪を犯し、本人が心から反省して罪を償い、現在活躍している人がいます。 その一方で、その人への批判を続けてる人がいます。

そもそも贖罪を認めないなら、一度罪を犯した人は社会に復帰できないことになります。 罪を償わない場合、その人を許さないのは当然としてですが。

アメリカのサウスカロライナ州で起きた銃乱射事件はアメリカ社会で繰り返される人種差別事件で、白人男性が黒人教会で聖書勉強会に参加していた黒人9人を射殺した事件です。

オバマ大統領はこのような事件のたびに銃の規制を訴え、民間人が銃の保有を規制する法案を出しています。 それがこのような不幸な問題の再発の抑止になるのかわかりませんが、再発を防ぐ対策を講じるのは当然のことと思います。 そもそも国政のトップである大統領が黒人の国で、このような事件が何度も起こることが個人的には理解しがたく、アメリカ社会の複雑さを表わしています。

その容疑者の裁判で遺族が証言台に立ち、『ヘイトクライム(憎悪犯罪)の連鎖を断つには罪を許す以外にない』と証言されていることです。 確かに犯罪の連鎖を断ち切るには報復は避けるべきでしょうが、罪は罰と連動すべきものだと思います。 証言された遺族の方は心情として罪を許し、犯人を釈放すべきと言っていないと思います。

罪と罰の話題において私が印象に残る話が一つあります。 私の叔父が高校の教員をしていて、生徒が何か不始末をしでかし、その処罰を決める職員会議で叔父が退学処分を提案したそうです。 生徒の犯した罪と校則や過去の処罰からそのように主張したらしいです。 それに対して生徒の将来を考え、退学処分に反対された教員がおられたそうです。 叔父は罪と罰との兼ね合いから退学処分を判断し、反対した同僚や罪を犯した生徒を批判することはありませんでした。

当時小学生だった私にそんな話をした叔父は心情において釈然としなかったのかもしれません。 50年近く経過した今でも鮮明にそのことを思い出します。

私も立場上、職員の評価や懲罰の判断をしなければならない場合があり、人が人を裁いたり評価することの限界を感じます。 業績の悪い営業の査定で、公平感を保つために査定の算定方法を明確に決めていますが、厳格に査定しても結果に疑問が残ります。

大変低い評価だった営業職員は仕事に取り組む姿勢も前向きで、たまたま良い業績があげられなかったように思われる場合などです。 何とか少しでも査定を良く出来ないものか、と考えいろいろ情報を集めてみますが査定方法の不備にまで至りません。 本人もつらいでしょうが査定する方も苦しみます。

これは査定の話で、懲罰となると就業規則に照らし合わせて判断します。 就業規則では罪に当たる行為が広範なので抽象的に書かれてあり、罰に当たる処分内容もかなりの幅をもって定義されていて、適応において高度の判断が必要になります。

他所の経営者も同様の悩みがあり、話題になります。 罪は罪、罰は罰、悩みは本人事情を知るが故の心情の問題なので最後は公平性の観点から慣例に従いと言うことになります。 そして意味をなさない悩みはその後の本人への努力に対するエールに変わっていきます。

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