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価値観

[価値観]

偶像

人は象徴的なものを求める傾向があります。 自分の気持ちを高めたり、意識を集中したり、獲得した境地を新たにするために塑像や絵を用いたりします。 それが野蛮なことでは決してなく、テニスの選手がグリップにつけたマークを見つめることで集中したりしています。

チベットの地(現在チベットという国はないし地名としてかつて吐蕃王国があったエリアを示す)の山を登りに行ったときに滞在したエリアのチベット人はラマ教の熱心な信者で、地面に棒を立ててロープを張り、経文が印刷された布を張り付けた場所に出向いて、『友達と喧嘩してしまった』などと懺悔し、心のもやもやを浄化させるようです。

企業において創業主の像があったり、管理職だけに許される制服があったり、役員用のバッチがあって職員がみなあこがれをもっていたりします。 これらも偶像と考えられるでしょう。

会社において代表取締役の究極の役割は何かと自問することがあります。 会社全体の方向性を示したり、大きな問題の責任を取ったりすることでしょうか?

よく大会社で職員の一人が違法行為をなして世間を騒がせたりすると代表が出てきてマスコミ相手に謝罪し、進退を問われます。 「責任を取って辞めます、再発防止に全力を注ぎます」などと答弁があり、辞める人には不運であったと同情が集まり、留まる人にはそうまでして役職にしがみつきたいかと思われるでしょう。

いづれにせよ個々に事情があり、代表の管理で防げた場合は辞任もありうるし、全くあずかり知らぬところで起こった事件なら辞任することに何の意味もないでしょう。 必要なのは役職に応じた責任を取ることと思います。

しかし代表への一般の認識は、全経営責任をはたす考え方が一般的で、代表は全能者であることが裏打ちされているとおもいます。 すべての権限を委任したり行使したりしているかは別として持つものが代表という考え方ですから全責任を負うのは当然と考えられがちです。

それは国家官僚のような旧態とした組織でもIT企業のようなコンテンポラリーな組織であっても、またヤクザのような任侠道の組織であっても、軍隊のような戦闘集団であってもみな同じように思います。

私はすべての役職、地位において権限を持ち、権限に従って意思決定したことの責任がついて回るもの、それで組織は語れると信じていました。 組織の権限構成は完ぺきではなく、権限間に隙間があれば組織のほころびが起こるかもしれません。 費用対効果からレアケースのための責任者を省くこともよく行われます。 したがって、隙間だらけの中で起こりうる事故は末梢の問題であっても代表の責任となってしまいます。

それはそれで合理的な判断ですが、規定などで成文化してそのリスクを網羅することはあまりに煩雑です。 そこで代表は全能者であるという話題に繋がってしまいます。 全能者を表すものはこれこれの権限を有するというものではなく、彼が怒れば怒りの対象は正しくなく、彼が正しいといえば正しくなってしまう、つまり『彼』は偶像そのものになってしまいます。

資本主義や民主主義が発明されて何世紀も経過しても人の営みは全能の神を必要にしているように思える時があります。

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