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人間関係

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人間関係

 社会生活を営む上で人間関係の問題は避けて通れません。 私も人並みに人間関係で悩み苦しむことが多くあります。

 たまたま先日ある本を読んでいて人間関係の要となる言葉に出会いました。 『信頼とは善良な動機から始まる』というものです。 誰の言葉かひかえていないので判りませんが、この言葉に出会った時生るほどと思いました。 もちろん人間関係の問題のすべてが信頼感に根ざしているわけではありません。

 人間関係は大きくは善悪の問題と好悪の問題(価値観の違いと言えるでしょうか?)に大別しています。 仕事での人間関係に限定すれば殆ど善悪の問題として対処が必要でしょう。 人事考課や仕入れ先の選定を好き嫌いでされたらたまりませんし、 例示した言葉通り信頼感は築けません。

 しかし解っていても好き嫌いはありますし、 結果に反映しているでしょう。 ある仕入れ先は担当者が来たとき『この担当者なら取引してもよい』とひらめき、現在主要取引先になっています。 その時の担当者は出世し、やがては当社の担当を外れることになるでしょう。 私が今後も仕入れ先の決定権を持つなら後任の担当者が気に入らなければ仕入れは大幅に縮小されることになります。 その仕入先との取引により、当社は大きく展開することができました。 別の仕入先で同じ結果になったかわかりませんし、担当者が別の方であれば全く取引することはなかったかもしれません。 つまりお互い気に入ったおかげで相互の利益を作り上げることができたわけです。

 同じような話は大企業の社長の話にも出てきて、そんな神がかりな人間関係が世の中にあるものだといつも不思議に思います。

 社員の採用でもそのようなひらめきを感じる人がいて、入社が叶うように話しかけ、入社後活躍されている方もいます。 活躍したのは本人の努力の賜物なのですが、私はことあるごとに話を聞いたり話したり励ましたりします。 これを依怙贔屓と言えばそうなのでしょうが、こちらがそう思わない人に同じことをしたら疎ましく思われるだけです。

 私はひいきにしている人の仕事がうまくゆくように心から思って話を聞いたり話したりします。 つまり最初に紹介した『善良な動機』 に基づいて対応し、お互いに信頼感が生まれます。

 では絶対的な『善良 』はあるのでしょうか? 前出の例では依怙贔屓されているから本人が頑張っただけではないか、それのどこが善良なのか? 人事考課でその人に甘く評価したわけではなく、本人は人並み以上に努力し成果を生んだ、それのどこがいけないのか、そもそも人は相性があり、私の時間や心に制限ある中ですべての人に平等に対処などできるわけがなく、私が励ましても成果を生まない人に励ましの言葉をかけて本人が疎ましく思い、腐ってしまうなら言わない方がよいに決まっているではないか、と言い合いになります。

 正しいことや善良なことに絶対性を求めても意味が無いように思えてなりません。  結果的に会社に貢献できることを私の心の善良性から行っている、別に自分に都合の良いシンパシィを得ようとしているような善良でない意思は持っていません。 

 何を行っても反感はあり、反感を抱いた人たちにも毛嫌いするわけでもなく誠実に対処してエゴイスティックな指針がないことを示し続けなければ信頼は生まれません。 単純に私の行為に反感を持つ人は日々のあいさつの仕方でも感じようがにじみ出てきますが、こちらからは感情で返すことはしないようにしています。

 何か自分の考えを表すことはここまで気を使わないといけないならそもそも気に入った職員に声などかけなければよいのですが、それもこれも人間であるから出てくる話で、避けて通れないのでしょう。 

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