監査役BLOG

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[会社運営]

論理と直観

 他人の事は評価できても自分がどのような人間か正確に判りません。 他人であっても自分であってもその人の行動や発言でどのような人か判断します。 もしほとんど話をしない、ほとんど行動もしない、というような人がいれば評価は難しく、『何も言わない、何もしない人』になります。

反対によくしゃべる人、良く行動する人がいます。 色々な所に出かけて行き、多くの人と話をし、アクティブに見えます。 当社の職員にもそのような人がいて、話をしたときにあとで何を話し合ったか思い出した時に情報の共有や何らかの決定や今後の予想など手帳に書き留めるようなことが何もない人がいます。 今日は寒いですね!、課員のだれだれが今日は休んでいます、飼い猫が餌を食べないんですよ、当たり障りのない話題だけで会話が成り立った時です。 その話で10分とかかかります。

その様な世間話も無駄ではありませんが、すべての会話が世間話であれば少なくとも企業は成り立ちません。 事業活動の基本はplan  do  check  action その報告・連絡・相談がコミュニケーション内容です。

たまに会議に出て世間話に終始することがあります。 plan  do  check  action の何を話題にしているのか、例えば私は昨日どこどこの取引先に行って名刺交換したなど課員と共有すべき情報ではありません。 こういう目論見でこのような提案を取引先何社に何日かけて提案し、何社からは好意的な反応を得た等が典型的な会議の話題です。

言葉の一言に意図や意味があり、相手の発言を正確に理解し、あいまいさや矛盾を追求するようなコミュニケーションの例として推理小説や法廷での公判のやり取りがあります。

私はチャンバラ小説をよく読みますが、剣客が命のやり取りをするときの会話には必要最低限のものになり緊張感を高めます。

日常生活の会話が総て法廷での検事や判事や弁護士のやり取りのように論理的であればほとんどの人が息が詰まるでしょうが、たまにそれが出来る人がいます。

その人の仕事ぶりを見ていると理にかなった行動でブレが少ないです。 同様に理にかない、論理性の高い人でスタイルが違う人ともコミニュケーションは成り立ちます。 ただ利害が異なり、公判での原告と被告の弁護士同士はコミュニケーションは成り立っています。

その様に論理性に優れた人同士のコミュニケーションが成り立たないことがあります。 利害だけでなく価値観や方法のこだわり、目標設定の違いなどがコミュニケーションの断絶を意図するかしないか別にして生みます。

その様な時にわざと間合いを外し、重要な情報を隠したりして結論を遅らせることがあります。 論理、平たく言って理屈では結論が出てしまっても新たな事実が起こり、明らかになって結論は誤ったものになることはよくあることです。 自明の理には不確実な部分に対して前提がつき、前提が変わると結論も変わることになります。

経営者は結果責任を負い、理屈を考える人は前提の範囲において結論に責任を取ります。 会社での意志決定の殆どが自明の理であるかのごときプレゼンテーションでなされ、責任を負う経営者はそのプレゼンテーションに直観などで難癖をつけることになります。

plan  do  check  action を細かくすれば前提条件の変化以前に結論=アクションは正当化されます。 経営者は細切れの近未来を描くことで成立しない仕事をする人になります。

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[言葉]

[趣味]

古池や蛙飛びこむ水の音

 以前このブログで紹介しました浄土宗僧侶の従弟との話を書きました。 浄土宗の開祖は法然さん、従弟は浄土宗が個人の内面の救済に重きを置き、これに対して曹洞宗(禅宗)開祖の道元さんは社会問題の解決に重きを置く教えであると教えてくれました。 そこで現代の禅宗僧侶である南直哉さんの本を読み、なるほどと思う事が1~2割という話も書きました。

もう少し理解したいと思い宗教哲学者の山折鉄雄著、『宗教の力 日本人の心はどこに行くのか』を読み始めました。

著者は博識の人で、この本のタイトルである日本人の心の大本を分析するためいろいろな事象を時間を超えて紹介しています。 その中で特に面白いが表題の俳句の評価です。 芭蕉を目の敵にした臨済宗の有名な僧侶『仙涯さん』という方が江戸中期に活躍されたことが書かれています。 仙涯さんは俳句を作り、絵を描く人で、当時表題の俳句が秀逸であるとの評価に疑問を持ったそうです。

仙涯さんの絵に蛙が多く書かれていたそうです。 その絵の上に『座禅して人が仏になるならば』と書いてあるそうです。 蛙はいつも座していて、禅宗が座禅により成仏できるなら蛙はいつも座しているから仏になるという意味か、いやそうではないと山折れ鉄雄さんは言っています。

仙涯さんのパロディは『古池や芭蕉飛びこむ水の音』というものです。 芭蕉は僧侶のようないでたちで全国行脚し、問われれば『半分僧侶、半分俗人』と答えた記録があり、末期においてこつじき(托鉢)をしながら旅をしようとしていたようです。 仙涯さんがパロディめいた俳句を作ったのは芭蕉が仏教思想に影響を受けていたので、座禅を組んだ蛙が池に飛びこむより本人が飛びこんだ方が意味ある俳句であると著者は確信をもって解説しています。

表題の俳句の評価を集めた著者は高浜虚子さんのたわいもない評価を引き合いに出して、わびさびだけで評価すればたわいもない俳句であるとし、宗教学として奥深い俳句で、それを仙涯さんだけが見抜いたとしています。

パロディ俳句はびっくりでしたが、一番面白いのは宗教哲学者なる人が日本人の心を語るのに日本宗教=仏教徒八百万の神から分析する中でこのように面白い例示を上げて解説していることです。

山折さんは私より22歳年上ですから現在88歳、その柔軟な視点や分析に敬服いたしました。 少し思い込みが強いようにも思えますが、膨大な知識と教養が裏打ちされ、そうかと思ってしまいました。

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[趣味]

読書の勧め

 以前勤めていた先輩から年賀状が届き、一人暮らしをしているとのことで何があったのかと電話すると奥様が病没されたとのことでした。

私より一回り年上で78歳、お互いその様な年回りになってきたのかと思いました。 この人は昔から小説を乱読する人で、売れていない作家の作品を紹介してくれました。 まだ芽が出ていない作家を見出すのが趣味で、ジャンルを問わず紹介してくれます。 そして一冊読んでその後売れ出すとほとんどその作家の作品を読まなくなります。

私はお気に入りの作家を見つけるとその作家の作品をすべて読みたくなる方で、2回読むこともあり読んだ冊数ではその人より多いのですが、読んだ作家の数で言えばはるかに少ないです。 私の読書対象としての関心は面白いか、もう一度読みたいかにあります。 従って特定の作家にはまるのは食わず嫌いになると最近反省しています。 とは言え読書スタイルはそう変えられるものではありません。 最近ではチャンバラ小説にはまり、しかも佐伯泰英氏に集中しています。 しかしチャンバラ小説のジャンルで展開をみました。

先程の先輩が別れ際に紹介してくれたのは近藤史恵氏、佐藤多佳子氏、駅伝や自転車レースの話らしいですがネットで調べる限りあまり有名ではありません。 私は大阪市立図書館で本を借りて読みますが、ネット検索が可能で最近指標にしているのは蔵書数と発刊後に借りている人がいるかどうかです。

蔵書数が多いのは人気があるためで、売れている作品は蔵書数が30冊に及ぶことがあります。 蔵書数が多いにもかかわらず発刊後数年経過すると誰も借りていない作品は一過性のものとして読書対象から外す場合があります。 古典落語と同様面白いものは何時までも面白いという考えです。

世間で注目されない作品(例えば蔵書が一冊でいつ検索しても誰も借りていない作品)を何度も読み返したりすることはほぼありません。 経営に関わる本や学術書の類にそのようなものがありますが、小説とは異なります。 小説に限定すればやはりよく読まれている作品を読んでみるのが楽しいです。

前出の近藤史恵氏、佐藤多佳子氏はそういう意味で一作品の蔵書数が多く、刊行後もよく貸出されていました。 それでもウィキペデアの日本女性作家に登場しませんでした。

私は人に小説を読むことを薦めることはしなくなりました。 仕事が趣味と言えるくらい没入したり、毎週山登りなどアウトドアスポーツをしたり、オートバイで一人でツーリングしたり、親しい友人と酒席で話をしたり、そして読書をしたり映画見たり、楽しいことをいろいろしてきましたが読書は楽しみの大きなものでした。

何々のためになる等と考えずに楽しく思います。 少なくともTVゲームより楽しいと感じました。 今やTVゲームが小説や映画を凌駕するエンターテイメントの地位を築いています。 TVゲームの製作にかかる費用は小説家の印税収入をはるかに上回っていると想像されるのでゲームが面白いと思う人が多いのは当たり前だと思います。 すでにあるのかどうか知りませんがゲームの世界で芥川賞や直木賞のような評価基準が確立し洗練されれば芸術性やドラマ性の高い作品が生まれるかもしれません。

もちろん勝ち負けの問題ではありませんが、それでも今後100年程度は小説は根絶やしにされないと思います。 いまだに話芸としての古典落語が演じられているように。

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[生活]

[習慣化]

ミニマリスト

 日本経済新聞にミニマリストが紹介されていました。 初めて聞く言葉で、物にこだわらない価値観をもつ人との印象を受けました。

具体的に紹介されていた人はフィリピンに移住し、現地で暮らすのに(男性で未婚男性と思われます)大きなカバン二つだけの荷物だそうです。

ミニマリストは所有物が少ない、という特徴と移動しやすいという特徴(おそらく転居することが価値をもつ)をもっているのでしょう。

介護保険が始まったときに日本の介護ベッドとドイツの介護ベッドの違いで、日本のそれはベッド周りに物がたくさん置いてあり、ドイツの10倍と書かれていたのを思い出しました。 日本人は基本的にアンチミニマリストだと思います。 介護の世界でゴミ屋敷が話題になりますが、私の母も施設に入る直前ゴミ屋敷なっていました。 最も母の場合若い時からため込む性格で、物のない時代に育ったから物への執着が強いのだろうと思っていました。

私の価値観はミニマリストに近いと思います。 最近は物を買わないでなんでも大切に使っていくことを心がけていますが、気が付くと物が増えています。 そもそも大切に使うので服でも食器でも傷んだり割ってしまう事があまりありません。 10年以上着続けているスーツや20年以上履き続けている革靴(何度も底を張り替え週に1度くらいしか履きませんが)、なかなか荷物が減らないので暇を見つけここ数年使っていないものや着ていない服を捨てています。

思い切りが悪いので荷物の減少はわずかずつです。 それでも減りだすとほんとは必要だがしまい込んでいたので使わなかった物を見つけたりします。 いまの年齢になれば物欲は希薄になってくるので今後5年で荷物は半分くらいにしたいと考えています。

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[生活]

生き方

 世の中で上手く生きていて成功している人、ほとんどの場合その人は幸せな人生を送っているように思います。 たいていの人はそのような幸せを求めて生きています。

幸せは感じるもの、例えば曇天の冬山を寒さに震えながら登っていて、雲の晴れ間から陽光が差し込んで温かさを感じるようなものです。 温かい、今日の山行は快適になる、と温かさに付帯していろいろ思いが描かれます。

部屋にいて室温が快適な20度あり、その環境で一日過ごしていても温かさを感じて幸せや次の行動の展望が開けることはないと思います。

ある若い女性に『今何をしたいですか?』『お金が欲しいです、旅行に行って、おいしいものを食べたい』、その人にとって旅行に行くことは環境が変わり何か楽しいことや辛いことを経験したい、おいしいものを食べたいは日々食べているものより食べることでの幸福感を求めているかもしれません。

毎日の生活が平穏無事であってもそれが退屈と感じるかもしれません。 現代社会ではTVやネットがあって他人の生活を覗き見ることが出来ます。 多くは大変裕福な人、大変高学歴な人、また逆に不幸に暮らしている人など平穏に暮らしている人と違う生活をしている人の生活を紹介しています。 人はその対比に満足したり不満を感じたりしています。

私の趣味のチャンバラ小説ではTVなどのツールはなく、他人の暮らしと対比する情報が現代ほど多くありません。 したがって自分の生活の不満が他人との対比がより少なく、旅行や転職や美味しいものを食べる機会も現代人よりはるかに少ように想像します。

現代人にとって日々の生活での不満が小旅行や美食以上に内面の問題にあると仮定します。 おそらく古代の人も抱えていたでしょうが、その向かう先の可能性は選択肢という意味で広がっています。 内面の問題である以上安全、仲間や所属組織の存在、権力欲、マズローのいう欲求説に至ります。

地下鉄で通勤するときにほとんどの人が携帯から情報を取得しています。 その人たちも内面の問題を抱えていて、私の狭い人間関係でも金銭欲、名誉欲、権力欲、具体的に大きな一戸建てを買いたい、新規事業を起こして成功したい、といった欲求を持っていますが実現に向かっている人はまれです。

いろいろな情報を集め行動に移せば大きな一戸建てを所有することは大抵かなうでしょう(払う犠牲は大きいかもしれませんが)。 その人がその家に住むことが内面の充足につながるかというと実はつながらない場合を垣間見てきました。

内面の充足を満たすこと、幸せになることは大きな一戸建てを手に入れた瞬間に感じられるかもしれません(冬山で雲が晴れて一瞬日差しを浴びた時のように)。 内面の充足は別のもの、さらに大きな一戸建ての所有や出世ではなく者や形に転嫁できないもので平たく言えば価値観に巡り合うことと思います。

宗教はいろいろ便利なものを開発しています。 先祖への感謝、死の恐怖などのツールは宗教に帰依していなくとも日常生活に浸透しています。 内面の苦悩から解放されるため宗教に帰依するのも情報の多い現代社会を安全に生きのびるには優れた方法かもしれません。

私を含めそれができない人は膨大な情報から自分の物や形のある欲求と内面の欲求を満たす考えを見出し、考えに合う情報をふるいにかけ行動すれば欲求は満たされてゆきます。 ただし次の欲求は出てくるでしょうが。

 

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[生活]

新年おめでとうごさいます

 あけましておめでとうございます。 このブログも長期にわたり続けることがてきました。 大して人気もありませんが日によっては100人ほどの方がお読みいただいています。

もともと自分が会社の代表だったころ、求人で応募者にできるだけ会社の風土を知ってもらうために始めました。 私の主観でいろいろなテーマを隠さず書いてきました。

本音があからさまに出てお叱りを受けることが多かったですが、最近は本音を書いてもお叱りを受けることが減りました。

当たり障りのない話題を書くようにしたわけではなく、相変わらず本音の意見を書いていますが本音が受け入れるようになってきたのかと考えています。

昨年はこの歳になって仕事やプライベートの生産性や効率を上げることを目指し、隙間時間に何かをすることを心掛けました。 昨年1年のどこをとっても何も考えずに無為に過ごした時間は少なかったかと思います。 次の面談までに10分あれば今日の出来事をノートに書いたり次の面談の質問事項を整理したり、あくせくとした1年でした。

生産性という意味で気づいたことがいくつかありました。 些末なことですが運動不足を解消するためここ数年歩くことを意識していました。 日1万歩程度でしょうか。 足の指が変形し、魚の目が痛くて歩けなくなり皮膚科に行ってアドバイスをもらいました。 靴紐を締めろというものです。 足が痛いので靴紐を緩めて歩いているとつま先が当たり痛くなったようで、靴紐を締めると次の日から痛くなくなりました。

馬鹿げた話ですが考え違いをしていると思わぬ結果を招くことを知りました。 靴屋に教えてもらうことを皮膚科のドクに指摘されたのも新鮮です。

日常生活は何らかの行動の集積、個々人が目標に向かって考えた行動を行っています。 何も考えず眠くなったら寝る、お腹がすいたら食べる、生活費が必要だから仕事をする、程度の差はあれどうなりたいと何も考えずに日々を過ごす人は珍しいと思います。

私は目標設定の思いが強く、年齢も重ねたので体力や知的能力も衰えたにもかかわらず生産性を上げて自分の目標に近づきたいと思い隙間時間の工夫をしました。 しかし足を痛めて考えを改めようと年頭に思いました。

自らの行いで上手く行っていないこと、例えば会社で判断が必要な時に自分だけ違う考えで皆が理解しなかった時に(たまたま私の判断は結果的に正しかったのですが)説明として何が不足していたのか自分の説明を振り返り、説得すべき対象の人の反論を考えると自分の説明の欠点が見えてきます。 皆が同じ考えではないことは承知していても自分だけの考えを主張すればだれも納得しない、たまたま私の意見が採用されよい結果が出ても判断したときに戻ればやはり誰も納得できないことはよくあります。 納得できる説明ができれば私のそして会社の生産性は飛躍的に上がります。 答えは見えても説明できない自分に靴紐を締めないような考え違いがあると思います。

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