[意思決定]
評論家
世の中には評論家と呼ばれる職業があり、特定の分野の知識を厚くしてその分野の事象を評価する人のようです。 実践の世界では『評論家はいらない』という批判を聞きます。
評論家はいらないと批判される人はなにがしかの評価をするうえでその分野の知識を一定もっているのでしょう。 そして自らの評価に基づき適切な意志決定を示唆したり他人の決定を批判したり、もしくは将来を占ったりします。 しかし決定の責任を取る立場ではありません。 もし責任を取る立場なら別の判断をするという事でしょうか? おそらく責任を取る立場に立てば何も決めないという選択をするか誰かの責任になるように仕掛けを作るかするでしょう。 評論家はいらないは責任を取らない人はいらないという意味で考えます。
以前会議で『実績があげられない人はやめればよい』と私が発言すると鼻で笑った人がいました。 笑った人は普段社員教育の必要性について説いています。 教育の定義は話していませんが、少なくとも企業内の教育は研究職などを除きアカデミックなものではなく、より実績的で成果につながるものです。 成果は責任感によってもたらされ、責任感は自ら決定に関与したミッションの達成により果たされます。 ゆえに社内での教育の基本は達成できそうな明確なミッションを職員に与え続ける事です。 そのミッションは実行する職員が決定に関与しなければならず、自ら決定に関与することは降りてきたミッションに場合によって『ノー』と言えることです。
企業内で評論家的立場の人がいます。 そして貢献を果たしている人が多くおられます。 他人が責任を取る仕事に評価を下し、責任を取る立場の人に尊敬されています。 役立つ評論家の特徴は何か、現場の情報が多いからか、多くの本を読んでいて先人の知恵に造詣が深いから、元々現場経験が豊富だったなどいろいろ想像できます。 まとめて感が良い人では説明になりません。
ドラッカーは成果に集中する人が成果を上げると言っています。 私もそのように思います。 会議で部門間のシナジー効果の話題が出てくると事業の本心である利益をあげて事業を継続することからそれることになります。 シナジー効果はあくまで副次的なもの、利益をあげる方法でしょうか。 方法が目的になれば事業運営はゆがんできます。
最近『もうけ主義』との批判を頂戴しました。 外部の人ですがもうけ主義と事業運営で利益を稼ぐことの意味を説明できない人なのでしょう。
意味することの本質もわきまえず、むやみな批判をする愚かな人に『愚か』という代わりに事業運営を通じて本質に基づく行動の重要性を示してゆきたいものです。