監査役BLOG

会社を見る鳥の目

経営者の目線で、日々の思いやできごとを綴っていきます。

[経営]

集中

 およそ組織は企業でも行政組織でも軍隊でも情報の流れは上層に向かいます。 愛読しているチャンバラ小説(主に江戸期)でも典型的な官僚組織である幕府において情報の正規ルートは上方向で横方向には向かいません。 時代が下って第二次世界大戦の戦艦大和は3000人の乗組員の情報は艦橋に設けられた指揮所に集まり、指令が出ています。 指揮所に通じる伝達手段が途切れれば指示は出せません。

現代の大企業でも社長の所に全ての情報が集中し、判断されているところがあります。 各部署の責任者は毎週決められた日時に代表のもとに状況説明に行き、詳細説明を行い、細かい指示を受けます。 おそらく移譲されている権限範囲のことまで指示されている会社があるようです。 そのような企業が前近代的な経営方法と批判できないほどうまく機能している場合があります。 職員の多くは最上位者から詳細指示を受けることでほぼ全てにおいて免責となり、気が楽です。

情報の集中と詳細指示だけであるならメーリングシステムで解決できるように思われます。 実際にメーリングシステムですべての判断を行っている企業があります。 やれば出来るのでしょうが職員数が多くなるとどうでしょうか。 我々の世代は先輩や上司が帰りに一杯付き合うことで愚痴を聞いたりしていました。 業務内容がマニュアル化出来て例外処理の指示を仰ぐことで事足りる仕事ならうまくできそうな気がします。 しかし人のやることですからマニュアル化できないようなやりがいなどマニュアルとメールで解決できないことも出てきます。

米軍の映画を見ていると精神科医などがカウンセリングを行っているシーンが出てきます。 戦闘という極限状態での精神性の維持は難しいでしょう。 アメリカの経営学では権限移譲の話題が多く、情報・権限の上層に集中する官僚機構を否定する研究報告が多いように思われます。 その最も進化したものとして『サーバントリーダー論』です。 平たく言えばリーダーは業務を執行する部下を支える仕事に集中するというものです。 執行者は権限移譲を受け、責任をもって業務執行を行います。

あるホテルで各職員は顧客満足を得るために2000ドルまでの支出を上司の許可なく使えるそうです。 そのホテル(アメリカ本土)に宿泊した人がノートPCを部屋に忘れ、宅急便で次の宿泊先であるハワイのホテルにPCを送るように連絡しました。 そのことを指示された客室員はそのPCを持って飛行機に乗りハワイの指定されたホテルに届け、称賛されたそうです。 この職員は仕事をするうえでマニュアルに縛られることなく顧客満足を最大化できたので、いつもそのように対応できれば帰りに上司と一杯飲みながら愚痴ることもなければ精神科医のカウンセリングを受ける必要も小さいと思われます。

働く人個々人の自由度を大きくすることだけでパーフォーマンスを最大化することは困難でしょうが、働き仕事をすることについて考えるヒントになりました。

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[プライベート]

失言

 友人の一人に口うるさい人がいて、その人にとって不快なことを私が言うと批判します。 『そんなことを言うのは何時もそんな事を思っているかだ』と、思わなければ言葉にでない、誰でもいろいろなことを考え、思い浮かべてしまうものです。 何かの答を導き出すときに我々は頭の中にある情報を総当たりで組み合わせ、評価し言ってしまうものです。 学校教育でも考えるスキルという点で情報=予見を組合わせて答えを導く訓練がなされます。

組み合わせの中から最適解を導き出すのは価値観と情報の網羅によりほぼ決まります。 価値観は仕事であれば設定された目標そのものになります。 情報は集める過程でその人の本質的な価値観で決まります。 何に関心があるかで同じものを見ていても入ってくる情報は異なります。

情報を組合わせ設定された目標に合致しているか選別した解の中には特定の関係者にとって好ましくない解も含まれます。 仕事であれば皆が嫌がる作業を含んだ解で、誰かがそれをやらなければならない時などです。 他の解に比べそれが一番目標に沿っているなら皆が嫌がる作業は避けられません。 それを口に出して言えば組織の誰かがそれを担う事になり、担当する誰かが自動的に決まります。 その人は「また俺か」と嘆きます。

最適解をきめるのは仕事では組織長、誰かに負担を強いる解の決定をできない人は辛い作業を含まない迂遠な解をあえて出すときがあります。 組織メンバーの殆どが最適解に気づいていて誰かが会議でその解は迂遠であり最適解を提案する場合があります。 発言者が嫌な作業を自分がやるといえば治まりますが、特定の人に押し付ける発言をすればその人から恨まれるでしょう。

設定された目標に沿っているのでこの場合も感情を排除すれば妥当です。 解が違法であったり、他社の人権を侵す要素を含んでいれば発言した段階で許されなくなります。

会社でも政治の世界でも複雑系の話題でよくある話で、悪魔のささやきに傾くときがあります。 それを避ける方法考えていて思いついたのは利害を超越する事だと思いました。 自分の保身や決断できないという評価を甘んじて受ける覚悟があれば最適解にたどり着きやすいと考えました。

利害を超越する方法はお金や役職にこだわらず、質素に暮らすこととともに正しい目標を設定して最適解を考え抜くことに尽きると思います。 そしてそれは凡人にもできる行いです。

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[会社運営]

論理と直観

 他人の事は評価できても自分がどのような人間か正確に判りません。 他人であっても自分であってもその人の行動や発言でどのような人か判断します。 もしほとんど話をしない、ほとんど行動もしない、というような人がいれば評価は難しく、『何も言わない、何もしない人』になります。

反対によくしゃべる人、良く行動する人がいます。 色々な所に出かけて行き、多くの人と話をし、アクティブに見えます。 当社の職員にもそのような人がいて、話をしたときにあとで何を話し合ったか思い出した時に情報の共有や何らかの決定や今後の予想など手帳に書き留めるようなことが何もない人がいます。 今日は寒いですね!、課員のだれだれが今日は休んでいます、飼い猫が餌を食べないんですよ、当たり障りのない話題だけで会話が成り立った時です。 その話で10分とかかかります。

その様な世間話も無駄ではありませんが、すべての会話が世間話であれば少なくとも企業は成り立ちません。 事業活動の基本はplan  do  check  action その報告・連絡・相談がコミュニケーション内容です。

たまに会議に出て世間話に終始することがあります。 plan  do  check  action の何を話題にしているのか、例えば私は昨日どこどこの取引先に行って名刺交換したなど課員と共有すべき情報ではありません。 こういう目論見でこのような提案を取引先何社に何日かけて提案し、何社からは好意的な反応を得た等が典型的な会議の話題です。

言葉の一言に意図や意味があり、相手の発言を正確に理解し、あいまいさや矛盾を追求するようなコミュニケーションの例として推理小説や法廷での公判のやり取りがあります。

私はチャンバラ小説をよく読みますが、剣客が命のやり取りをするときの会話には必要最低限のものになり緊張感を高めます。

日常生活の会話が総て法廷での検事や判事や弁護士のやり取りのように論理的であればほとんどの人が息が詰まるでしょうが、たまにそれが出来る人がいます。

その人の仕事ぶりを見ていると理にかなった行動でブレが少ないです。 同様に理にかない、論理性の高い人でスタイルが違う人ともコミニュケーションは成り立ちます。 ただ利害が異なり、公判での原告と被告の弁護士同士はコミュニケーションは成り立っています。

その様に論理性に優れた人同士のコミュニケーションが成り立たないことがあります。 利害だけでなく価値観や方法のこだわり、目標設定の違いなどがコミュニケーションの断絶を意図するかしないか別にして生みます。

その様な時にわざと間合いを外し、重要な情報を隠したりして結論を遅らせることがあります。 論理、平たく言って理屈では結論が出てしまっても新たな事実が起こり、明らかになって結論は誤ったものになることはよくあることです。 自明の理には不確実な部分に対して前提がつき、前提が変わると結論も変わることになります。

経営者は結果責任を負い、理屈を考える人は前提の範囲において結論に責任を取ります。 会社での意志決定の殆どが自明の理であるかのごときプレゼンテーションでなされ、責任を負う経営者はそのプレゼンテーションに直観などで難癖をつけることになります。

plan  do  check  action を細かくすれば前提条件の変化以前に結論=アクションは正当化されます。 経営者は細切れの近未来を描くことで成立しない仕事をする人になります。

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[言葉]

[趣味]

古池や蛙飛びこむ水の音

 以前このブログで紹介しました浄土宗僧侶の従弟との話を書きました。 浄土宗の開祖は法然さん、従弟は浄土宗が個人の内面の救済に重きを置き、これに対して曹洞宗(禅宗)開祖の道元さんは社会問題の解決に重きを置く教えであると教えてくれました。 そこで現代の禅宗僧侶である南直哉さんの本を読み、なるほどと思う事が1~2割という話も書きました。

もう少し理解したいと思い宗教哲学者の山折鉄雄著、『宗教の力 日本人の心はどこに行くのか』を読み始めました。

著者は博識の人で、この本のタイトルである日本人の心の大本を分析するためいろいろな事象を時間を超えて紹介しています。 その中で特に面白いが表題の俳句の評価です。 芭蕉を目の敵にした臨済宗の有名な僧侶『仙涯さん』という方が江戸中期に活躍されたことが書かれています。 仙涯さんは俳句を作り、絵を描く人で、当時表題の俳句が秀逸であるとの評価に疑問を持ったそうです。

仙涯さんの絵に蛙が多く書かれていたそうです。 その絵の上に『座禅して人が仏になるならば』と書いてあるそうです。 蛙はいつも座していて、禅宗が座禅により成仏できるなら蛙はいつも座しているから仏になるという意味か、いやそうではないと山折れ鉄雄さんは言っています。

仙涯さんのパロディは『古池や芭蕉飛びこむ水の音』というものです。 芭蕉は僧侶のようないでたちで全国行脚し、問われれば『半分僧侶、半分俗人』と答えた記録があり、末期においてこつじき(托鉢)をしながら旅をしようとしていたようです。 仙涯さんがパロディめいた俳句を作ったのは芭蕉が仏教思想に影響を受けていたので、座禅を組んだ蛙が池に飛びこむより本人が飛びこんだ方が意味ある俳句であると著者は確信をもって解説しています。

表題の俳句の評価を集めた著者は高浜虚子さんのたわいもない評価を引き合いに出して、わびさびだけで評価すればたわいもない俳句であるとし、宗教学として奥深い俳句で、それを仙涯さんだけが見抜いたとしています。

パロディ俳句はびっくりでしたが、一番面白いのは宗教哲学者なる人が日本人の心を語るのに日本宗教=仏教徒八百万の神から分析する中でこのように面白い例示を上げて解説していることです。

山折さんは私より22歳年上ですから現在88歳、その柔軟な視点や分析に敬服いたしました。 少し思い込みが強いようにも思えますが、膨大な知識と教養が裏打ちされ、そうかと思ってしまいました。

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[趣味]

読書の勧め

 以前勤めていた先輩から年賀状が届き、一人暮らしをしているとのことで何があったのかと電話すると奥様が病没されたとのことでした。

私より一回り年上で78歳、お互いその様な年回りになってきたのかと思いました。 この人は昔から小説を乱読する人で、売れていない作家の作品を紹介してくれました。 まだ芽が出ていない作家を見出すのが趣味で、ジャンルを問わず紹介してくれます。 そして一冊読んでその後売れ出すとほとんどその作家の作品を読まなくなります。

私はお気に入りの作家を見つけるとその作家の作品をすべて読みたくなる方で、2回読むこともあり読んだ冊数ではその人より多いのですが、読んだ作家の数で言えばはるかに少ないです。 私の読書対象としての関心は面白いか、もう一度読みたいかにあります。 従って特定の作家にはまるのは食わず嫌いになると最近反省しています。 とは言え読書スタイルはそう変えられるものではありません。 最近ではチャンバラ小説にはまり、しかも佐伯泰英氏に集中しています。 しかしチャンバラ小説のジャンルで展開をみました。

先程の先輩が別れ際に紹介してくれたのは近藤史恵氏、佐藤多佳子氏、駅伝や自転車レースの話らしいですがネットで調べる限りあまり有名ではありません。 私は大阪市立図書館で本を借りて読みますが、ネット検索が可能で最近指標にしているのは蔵書数と発刊後に借りている人がいるかどうかです。

蔵書数が多いのは人気があるためで、売れている作品は蔵書数が30冊に及ぶことがあります。 蔵書数が多いにもかかわらず発刊後数年経過すると誰も借りていない作品は一過性のものとして読書対象から外す場合があります。 古典落語と同様面白いものは何時までも面白いという考えです。

世間で注目されない作品(例えば蔵書が一冊でいつ検索しても誰も借りていない作品)を何度も読み返したりすることはほぼありません。 経営に関わる本や学術書の類にそのようなものがありますが、小説とは異なります。 小説に限定すればやはりよく読まれている作品を読んでみるのが楽しいです。

前出の近藤史恵氏、佐藤多佳子氏はそういう意味で一作品の蔵書数が多く、刊行後もよく貸出されていました。 それでもウィキペデアの日本女性作家に登場しませんでした。

私は人に小説を読むことを薦めることはしなくなりました。 仕事が趣味と言えるくらい没入したり、毎週山登りなどアウトドアスポーツをしたり、オートバイで一人でツーリングしたり、親しい友人と酒席で話をしたり、そして読書をしたり映画見たり、楽しいことをいろいろしてきましたが読書は楽しみの大きなものでした。

何々のためになる等と考えずに楽しく思います。 少なくともTVゲームより楽しいと感じました。 今やTVゲームが小説や映画を凌駕するエンターテイメントの地位を築いています。 TVゲームの製作にかかる費用は小説家の印税収入をはるかに上回っていると想像されるのでゲームが面白いと思う人が多いのは当たり前だと思います。 すでにあるのかどうか知りませんがゲームの世界で芥川賞や直木賞のような評価基準が確立し洗練されれば芸術性やドラマ性の高い作品が生まれるかもしれません。

もちろん勝ち負けの問題ではありませんが、それでも今後100年程度は小説は根絶やしにされないと思います。 いまだに話芸としての古典落語が演じられているように。

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[生活]

[習慣化]

ミニマリスト

 日本経済新聞にミニマリストが紹介されていました。 初めて聞く言葉で、物にこだわらない価値観をもつ人との印象を受けました。

具体的に紹介されていた人はフィリピンに移住し、現地で暮らすのに(男性で未婚男性と思われます)大きなカバン二つだけの荷物だそうです。

ミニマリストは所有物が少ない、という特徴と移動しやすいという特徴(おそらく転居することが価値をもつ)をもっているのでしょう。

介護保険が始まったときに日本の介護ベッドとドイツの介護ベッドの違いで、日本のそれはベッド周りに物がたくさん置いてあり、ドイツの10倍と書かれていたのを思い出しました。 日本人は基本的にアンチミニマリストだと思います。 介護の世界でゴミ屋敷が話題になりますが、私の母も施設に入る直前ゴミ屋敷なっていました。 最も母の場合若い時からため込む性格で、物のない時代に育ったから物への執着が強いのだろうと思っていました。

私の価値観はミニマリストに近いと思います。 最近は物を買わないでなんでも大切に使っていくことを心がけていますが、気が付くと物が増えています。 そもそも大切に使うので服でも食器でも傷んだり割ってしまう事があまりありません。 10年以上着続けているスーツや20年以上履き続けている革靴(何度も底を張り替え週に1度くらいしか履きませんが)、なかなか荷物が減らないので暇を見つけここ数年使っていないものや着ていない服を捨てています。

思い切りが悪いので荷物の減少はわずかずつです。 それでも減りだすとほんとは必要だがしまい込んでいたので使わなかった物を見つけたりします。 いまの年齢になれば物欲は希薄になってくるので今後5年で荷物は半分くらいにしたいと考えています。

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[生活]

生き方

 世の中で上手く生きていて成功している人、ほとんどの場合その人は幸せな人生を送っているように思います。 たいていの人はそのような幸せを求めて生きています。

幸せは感じるもの、例えば曇天の冬山を寒さに震えながら登っていて、雲の晴れ間から陽光が差し込んで温かさを感じるようなものです。 温かい、今日の山行は快適になる、と温かさに付帯していろいろ思いが描かれます。

部屋にいて室温が快適な20度あり、その環境で一日過ごしていても温かさを感じて幸せや次の行動の展望が開けることはないと思います。

ある若い女性に『今何をしたいですか?』『お金が欲しいです、旅行に行って、おいしいものを食べたい』、その人にとって旅行に行くことは環境が変わり何か楽しいことや辛いことを経験したい、おいしいものを食べたいは日々食べているものより食べることでの幸福感を求めているかもしれません。

毎日の生活が平穏無事であってもそれが退屈と感じるかもしれません。 現代社会ではTVやネットがあって他人の生活を覗き見ることが出来ます。 多くは大変裕福な人、大変高学歴な人、また逆に不幸に暮らしている人など平穏に暮らしている人と違う生活をしている人の生活を紹介しています。 人はその対比に満足したり不満を感じたりしています。

私の趣味のチャンバラ小説ではTVなどのツールはなく、他人の暮らしと対比する情報が現代ほど多くありません。 したがって自分の生活の不満が他人との対比がより少なく、旅行や転職や美味しいものを食べる機会も現代人よりはるかに少ように想像します。

現代人にとって日々の生活での不満が小旅行や美食以上に内面の問題にあると仮定します。 おそらく古代の人も抱えていたでしょうが、その向かう先の可能性は選択肢という意味で広がっています。 内面の問題である以上安全、仲間や所属組織の存在、権力欲、マズローのいう欲求説に至ります。

地下鉄で通勤するときにほとんどの人が携帯から情報を取得しています。 その人たちも内面の問題を抱えていて、私の狭い人間関係でも金銭欲、名誉欲、権力欲、具体的に大きな一戸建てを買いたい、新規事業を起こして成功したい、といった欲求を持っていますが実現に向かっている人はまれです。

いろいろな情報を集め行動に移せば大きな一戸建てを所有することは大抵かなうでしょう(払う犠牲は大きいかもしれませんが)。 その人がその家に住むことが内面の充足につながるかというと実はつながらない場合を垣間見てきました。

内面の充足を満たすこと、幸せになることは大きな一戸建てを手に入れた瞬間に感じられるかもしれません(冬山で雲が晴れて一瞬日差しを浴びた時のように)。 内面の充足は別のもの、さらに大きな一戸建ての所有や出世ではなく者や形に転嫁できないもので平たく言えば価値観に巡り合うことと思います。

宗教はいろいろ便利なものを開発しています。 先祖への感謝、死の恐怖などのツールは宗教に帰依していなくとも日常生活に浸透しています。 内面の苦悩から解放されるため宗教に帰依するのも情報の多い現代社会を安全に生きのびるには優れた方法かもしれません。

私を含めそれができない人は膨大な情報から自分の物や形のある欲求と内面の欲求を満たす考えを見出し、考えに合う情報をふるいにかけ行動すれば欲求は満たされてゆきます。 ただし次の欲求は出てくるでしょうが。

 

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[生活]

新年おめでとうごさいます

 あけましておめでとうございます。 このブログも長期にわたり続けることがてきました。 大して人気もありませんが日によっては100人ほどの方がお読みいただいています。

もともと自分が会社の代表だったころ、求人で応募者にできるだけ会社の風土を知ってもらうために始めました。 私の主観でいろいろなテーマを隠さず書いてきました。

本音があからさまに出てお叱りを受けることが多かったですが、最近は本音を書いてもお叱りを受けることが減りました。

当たり障りのない話題を書くようにしたわけではなく、相変わらず本音の意見を書いていますが本音が受け入れるようになってきたのかと考えています。

昨年はこの歳になって仕事やプライベートの生産性や効率を上げることを目指し、隙間時間に何かをすることを心掛けました。 昨年1年のどこをとっても何も考えずに無為に過ごした時間は少なかったかと思います。 次の面談までに10分あれば今日の出来事をノートに書いたり次の面談の質問事項を整理したり、あくせくとした1年でした。

生産性という意味で気づいたことがいくつかありました。 些末なことですが運動不足を解消するためここ数年歩くことを意識していました。 日1万歩程度でしょうか。 足の指が変形し、魚の目が痛くて歩けなくなり皮膚科に行ってアドバイスをもらいました。 靴紐を締めろというものです。 足が痛いので靴紐を緩めて歩いているとつま先が当たり痛くなったようで、靴紐を締めると次の日から痛くなくなりました。

馬鹿げた話ですが考え違いをしていると思わぬ結果を招くことを知りました。 靴屋に教えてもらうことを皮膚科のドクに指摘されたのも新鮮です。

日常生活は何らかの行動の集積、個々人が目標に向かって考えた行動を行っています。 何も考えず眠くなったら寝る、お腹がすいたら食べる、生活費が必要だから仕事をする、程度の差はあれどうなりたいと何も考えずに日々を過ごす人は珍しいと思います。

私は目標設定の思いが強く、年齢も重ねたので体力や知的能力も衰えたにもかかわらず生産性を上げて自分の目標に近づきたいと思い隙間時間の工夫をしました。 しかし足を痛めて考えを改めようと年頭に思いました。

自らの行いで上手く行っていないこと、例えば会社で判断が必要な時に自分だけ違う考えで皆が理解しなかった時に(たまたま私の判断は結果的に正しかったのですが)説明として何が不足していたのか自分の説明を振り返り、説得すべき対象の人の反論を考えると自分の説明の欠点が見えてきます。 皆が同じ考えではないことは承知していても自分だけの考えを主張すればだれも納得しない、たまたま私の意見が採用されよい結果が出ても判断したときに戻ればやはり誰も納得できないことはよくあります。 納得できる説明ができれば私のそして会社の生産性は飛躍的に上がります。 答えは見えても説明できない自分に靴紐を締めないような考え違いがあると思います。

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[趣味]

チャンバラ小説の凄み

 チャンバラ小説を読むことは何度か書きました。 チャンバラ小説は最終的には刀を振り回して事を決するわけですから鉄器の製作が始まった時代からになるでしょうが、小説として厚みのあるのは江戸時代でしょうか。

武士階級が1600年に関ケ原の戦いで戦争を終結させ、封建時代の安定期である江戸時代が約260年も続きましたが、経済としてこの間大きなイノベーションがなく、生産力の画期的な進展が見られなかったことが安定の大きな理由といえます。

世の中の安定期に話題になることの一つがしきたり、ルールでしょうか。 現代社会でその地位が比較的安定している職種でいえば医者、上級職の公務員などで、彼らの世界には独特のルールが存在すると思われます。 あるMR(医薬メーカーの営業)の人と話をしていて、医局(医師のいる部屋)に入るときに目的のドクに向かう通り方に決まりがあると聞いて驚いたことがあります。 権限と医師会という政治団体で守られた地位は不動でその上に胡坐をかく輩の行為行動は目に余るものがあります。

薬局に処方箋を持ってきたが医師が調剤が遅いなどと喚き散らします。 その態度はチャンバラ小説に出てくるアンダーグラウンドの浪人と同じ、浪人は地位も権力を守る医師会御用達の弁護士も多くの報酬もありませんが刀という特権があります。

江戸期に限って小説の対象は武士階級、岡っ引きなど警察組織、経済の主役たる商人、職人としての町人(脇役が多いですが)、医師、農民、漁師です。

圧倒的に主役は武士、では現代小説で医師などが対象にならないのはあまりに話題が面白くてないこざかしい話題が多いからでしょう。

江戸期の話に戻して、今読んでいるのは佐伯泰英著の吉原裏同心シリーズです。 剣技に優れた浪人が吉原で起こる事件を解決してゆくというもので、奉行配下の公権力でなく自警団です。 したがって偉ぶることもなく、権限もなく、薄給で命を懸けて働きます。 何もない中で公権力の同心与力より成果を上げることを期待されます。 無いものに組織力や情報も含まれます。 PCもネットもない中で聞き込みと推理、情報は書き付けることなく全てが記憶です。 多くの登場人物、複雑な利害関係の中でわずかな情報を元に組み立ててゆきます。

当時PCとネット環境、携帯電話があれば我々でも同じように事件を解決できるかというとツールがかえって頭の中の組み立てを阻害したかもしれません。

チャンバラ小説の醍醐味の一つはこのように便利なツールなしで、抜群の質問力・推理力、誠実さで多くの人との信頼を得ることを武器とすることがツールで装備された現代を凌ぐことがある、無視できないことに面白みがあるのかもしれません。

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[プライベート]

悩むこと、考える事

 ○○について考えました。 採用面接の面接の一コマです。 例えばなぜ転職しようとしたのかを質問したときなどです。 転職は普通は人生の大きな決断、誰でも今の職業についてこのままでよいのかという不満や不安があり、悩みます。 そして友人などに悩みを打ち明けてアドバイスを求めたり、転職すればという後押しをしてもらいたいと思います。

その人は転職しても基本的な不安や不満は多少小さくなったりしても解消しません。 不安や不満はその人自身の問題で、本人と周囲の環境(ほとんどが人間関係)で不安や不満を感じます。 転職先の仕事が適当に忙しく、それをこなそうとする気持ちが強ければ不満や不安はあまり意識しなくなります。

若いときに大峰山系の山から沢伝に下山する途中で日没になってしまい、下山できなくなったことがありました。 空は雲に覆われ雨が強くなり、ビバーク(野営)や非常食の準備をしていませんた。

日没とともに真っ暗になりか雨具を着たまま岩の上で寝てしまいました。 寝ている自分には雨は降り続けたのですが真っ暗闇で対処のしようもありません。 日の出とともに目覚め下山しました。 何も食べていないので空腹のはずですしタバコも吸っていません。 疲れているはずだし、熟睡したとは思えませんがなぜかすっきりした気持ちで帰路につきました。

たまたま身の危険という状況だったので何も感じなかったし、熟睡もしたのでしょう。 不思議な体験でした。 その時を振り返り何を考え、悩み、不安を感じたか思い出せません。 何も考えないし、不安も感じなかったのでしょう。 帰宅して家族は葬式の心配をしていたのは驚きでした。

このように強いストレスがあるときにはかえって冷静でストレスはおろか苦痛も不安も感じなくなるようです。 この時身の危険というほどではないストレスだったら『下山できないことの連絡をどうしよう』とか『明日の会社の仕事は誰かしてくれるか』等と言う不安や皆に迷惑をかけたという悩みを感じたことだと思いますが、とにかく無事に下山する事、沢を下っての下山は大変危険で滝で転落する事故の危険は大きかったので次の一歩の安全が考えることで緊張しており、会社や仕事の事は頭に浮かばないものだと思いました。。

話は横道にそれましたが、転職の判断において身の危険はありません。 従ってしんどい仕事か、給料が減るかなど雑念に振り回され一番考えなければならないことが考えられないようになっています。 もはや考えているのではなく悩んでいるだけで自分で考えた結論には至りません。 身の危険のような強いストレスも無いのに雑念に振り回されることなく考え結論を出せる人に何人か出会いました。 損得だけで考えれば損をしたような結論を出したかもしれませんが、それらの人から後悔の念を聞いたことはありません。

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