監査役BLOG

会社を見る鳥の目

経営者の目線で、日々の思いやできごとを綴っていきます。

[会社運営]

取締役と従業員

取締役の役割が社内で話題になっています。 私のつたない知識では取締役を規定するものは会社法しか認識していません。 取締役は株主から経営をゆだねられ、株主、債権者への責任を果たすことが求められています。

さらに従業員の雇用や社会貢献への責めを負わされていることはマスコミ報道からも明確です。

一方社内から取締役就任を見ると明らかに昇進の意味合いが強く意識されます。 いわゆる出世したということですが、当社のような中小企業では取締役の権限は大きくみられがちで、それだけ大きな権限をもちえることは一面で出世とみられるかもしれません。

私の場合代表ということで、さらに強大な権限を持っているように社内外から見られます。 確かに責任は大きく、株主への経営責任や雇用、社会貢献は言うに及ばず、仕入れ取引の継続責任や金融機関からの債務の保証など果てしなく大きな責任がのしかかっています。 上場企業ではありえない連帯保証だけでも保証額は莫大です。

一方責任を果たす上での権限は限定的で仕入れ先一つの変更ですら勝手に出来ません。 先日友人の印刷会社に発注していた名刺を総務担当が変更しました。 友人は『なぜか?』と強硬に聞いてきました。 私は関与していないでそのように伝えると友人は絶句します。 小企業のオヤジが名刺の発注先の決定権を持っていないのか?と訝るわけです。

そういう意味では業務を分担し、担当を決め、権限を与えて自らの手から実務的な作業を外してきた結果で、当然の事なのですが一般的ではないので外部から見て違和感があるかもしれません。 権限を委譲した私はと言えば以前にもまして忙しく、仕事の難易度は高くなってしまいました。

実務はうまく行えば成果は明確になりますが、実務を離れ、方針策定など純粋に経営マターは成果が直接的ではありません。 しかし優れた経営とそうでない経営は安定性や人が育つことにおいて明確に異なってきます。 良い経営であれば職員の定着率が上がり、雇用責任の一端を果たしたことになります。 経営の安定は債務に対するリスクを減らします。 コンプライアンスを重視することで事業運営を通じてあるべき社会貢献を
果たします。

取締役はこのような抽象的な役割を担う仕事で、自ら指導が上手い=マネジメントに優れている、地域戦略に優れている=戦略思考に長けている、組織運営をうまくこなす=リーダーシップ、というような個別具体的な特技を持たなくても役割を果たす事が出来ます。 もちろんいろいろ特技があればそれに越したことがなく、営業が上手いばかりに花々して営業成果を上げ続ける経営者もたくさんおられると思います。 そのような場合、会社の長期ビジョンや方向性を考える副官がおられると思います。

しかしその会社の取締役全員が具体的な事への取り組みしか関心が無くて、営業や作業効率向上しか関心が無くて、となると会社は強力エンジンを積んだ車の暴走と同じく方向性の確定も危機回避も出来なくなります。 事業を取り巻く環境変化がすさまじい現在、ビジネスモデルや戦略の修正をはじめ、経営マターとして課題はどんどん現れます。

取締役に就任することはリスクだらけの問題を解決し、最高の結果を生み出しても経営判断の成果と称賛されにくく、誤って地雷を踏んだ時に散々責任追及される役割で、昇進と喜ぶのはどうかという印象を持ちます。
代表取締役などは最たるもので、うまくやれる人がいたら熨斗を付けて譲りたいと思うことがあります。

そのような取締役のメンバーを新たに考えるときに候補は営業が上手かったりマネジメントが得意だったり、事務処理に長けていたり下になります。 そういう人の中からビジョンを描くことの得意な人を見つけるのは案外難しいことです。

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[生活]

うかうかしていられない

几帳面にあれこれやらねばならない事を考え、忘れないようにメモに書いてこなしてゆくようにしています。 薬を飲んで、ノートを書いて、掃除をして、買い物に行って・・・・・・限も果てしもないほど項目が羅列してゆきます。 重要な項目の頭に印をつけ、せめてこれだけはやっておこうと決意して取り掛かります。

調子良くかなりの項目がかたずけられるときがあります。 ある時は最初に取り掛かった項目に手間取り、それ一つで終わってしまうときもあります。

難易度の高い項目があり、取り掛かることに躊躇する場合もよくあります。 あまりに不調の時はいろいろ言い訳を考えます。 『焦らず、挫けずに行こう』とか、『一つ一つを確実に』とか、悪い言い訳は『もう年なんだから頑張れない』とか『そんな事が出来ても何の役にも立たない』とかです。

そんな挫けた時に思い出すのは『できる方法を考える』という言葉です。 やらねばならない事であればそれが困難であってもやり遂げねばなりませんからできる方法を考えのが建設的です。

最近読んだ本に書いていたのはさらに厳しく
『人生にできないということはない。 単にやらないことがあるだけだ。』これは重い言葉です。眠気も疲れも飛んでしまいひたすら項目を処理して行かざるを得ません。

世の中には大変な言葉が多くあると実感しました。 言葉に感動している場合ではなく、ただ実行あるのみです。

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[生活]

希望

タイトルの言葉ほど重い話ではありません。 適当なタイトルが浮かばすに『希望』としました。

日常生活で以前出来ていた事が出来なくなった時のことです。 何が一番ショックか?

山登りを趣味にしていたとき、かつて日帰りで行った計画に再び日程の余裕をもってチャレンジし、失敗したことは20年たった今でも希望をくじかれた事件として鮮明に蘇ります。

この事件は加齢による体力を実感した体験ですが、実際にはそれほど体力が低下していたわけではなく2度目の時の体調が悪かったり原因があったと思います。 とはいえ最初にその山に登った時から7年程度後の計画で、体力が低下していたのは紛れもない事実です。

最近うんざりしたことは携帯電話です。 携帯電話が出始めたころからしばらくは機種が変わるたびについている機能を全て使っていました。 例えば着信音を自分で作れる機能があり、付属のマイクで録音した音を着信音にしてみたりとかです。 その当時は携帯にも取扱説明書がありました。

しかしスマートフォンになってから取説は無くなり、機能は携帯を操作しながら気付くようになりました。 いろいろ操作して『そういう事が出来るのか、』と気付くのは魅力的なことですが、いくつか実際に行ってみてなるほどと思いました。 例えば万歩計、階段昇降階数までわかるのですが判ってしまうとこんなものかと思い興味を無くしてしまいます。 結果の記録もできればいろいろカスタマイズできるようになっているようですが、興味がわきません。

私より歳上の人がアプリをダウンロードしています。 その人はヨットが趣味で日本の各港の潮位がいつでもわかるアプリを使っていました。 投資している株価が判る、相場が急変したら警告してくれるなど聞けば便利なことです。 つまりはその人はヨットを趣味とし、株式運用をしてこずかいを稼いでいます。 頭が良くて器用で人柄も良くて友人もたくさんおられます。 自分と比較して自分がとりわけ劣っているとは思いませんが、優れているとはさらに思いません。 見えている部分ではその人の方がはるかに優れています。 仕事でも記憶力でもかないませんが別に落胆することはありません。

その人が器用に使いこなしたりしているスマホや器用に処理している業務において競う気持ちが湧いてきません。

しかしいつも他人の器用な姿を見ていて自分は違うと思っても虚しくなることがあります。 自分もあんなに器用に出来たらよいのにと。 そこで一念発起してチャレンジします。 それがスマホ等の電子機器等では壁に当たって止まってしまいます。 他人に聞いて要領を得ても元々大して興味もなかったことですから『そうか』で終わってしまいます。

つまらぬ競争心から行動を起こしてもとん挫する例を自分で作ってしまいました。 もし本当に興味が湧いたらとことん追求するのが自分の癖、若い時に比べ低下したのはいろいろな事への興味や関心、体力や理解力、記憶力といった計測可能なものは鍛え続けていれば低下するにしても微々たるもの、鍛えればそれなりに復活できるものです。

しかしあらゆることへの好奇心は鍛えようがありません。

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[生活]

元旦の生活

あけましておめでとうございます。 子供のころから正月は退屈で、どこのお店も休み、家族もTVの正月番組に見入っていて退屈でした。

大学生のころは家にいて親と話をするのが苦痛で、年末年始のアルバイト、元旦から大学の部屋で本を読むなど家にいないようにしていました。

結婚してからはスキー場の駐車場に車を止めて年末年始スキーを楽しんでいました。 もちろん車で寝泊まりしていたのですが。

ちなみに今日は近所のお寺に初詣、元旦も寝過ごすことなく普段の生活でたまっている新聞を読み、録画のビデオを見て自転車でゴルフの打ち放しに行きました。 西成区を横断して行くのですが、普段と変わることのない西成区でした。

さすがに打ち放し場は空いていて、好みの打席が取れゆったり練習できました。 道中の店舗はさすがに休みが多く、道行く大型トラックも少ないようです。

明日はオートバイで近場のツーリングに行くことにしました。

私はやはり正月の雰囲気が苦手でできれば早くいつもの日常に戻りたいと思っています。

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[人間関係]

人として

私はプライベートでおつきあいしている人は大変少ない方だと思います。 営業職の採用面接で親密に付き合っている人の人数を聞くことがあります。 『月に一回程度は連絡を取る人は何人ぐらいですか?』と聞いて30人と答えが返ってくると驚きです。

私の場合はせいぜい5人程度です。

アドラーの解説書がよく売れているそうです。 人の問題のすべては人間関係にあるという考え方で分析をした人のようですが、30人の人と親しく付き合えるとなると大変こなれた人に思えます。

私の親しい人の数が少ないのは私の性格に問題があって、多くの人と付き合う事が出来ないことにあります。 大変多くの人と親しくお付き合いしている人は結局深い付き合いができない人と思っていました。 浅く広く付き合う人の事ですが、親密な付き合いができるのは相手の人に興味を持ち続ける事が出来るからと私はずっと思っていました。

興味のある人と出会うとその人の事を深く知りたくて面談を繰り返します。 そして質問を続けます。 何が好きか、どういう価値観を持っているのか、宗教や政治、異性への関心、家族関係、一渡り質問を繰り返し、相手がどのような人であるか知りえたと思ったらその人に対する関心が失せてしまい、質問しなくなり、やがては会うこともなくなります。

学生だった頃、質問が尽きてもその人への関心が無くならない男性の友人が出来ました。 いろいろ話をして、どのような人間であるか理解したつもりになって新たな質問がなくなっても、また会ってわかっている答えを聞きたいと思う人でした。 質問するとほぼ想定した答えが返ってきますがその人の口からその答えを聞くと新鮮な意見に聞こえたものでした。

私がプライベートで付き合う人が少ないのはこのような理由で、関心を持って一定期間付き合ったことのある人は多い方だと思います。

人は何故友人を持つのか、一人ぼっちは淋しいから、助けてほしいから、同じ趣味に興じるため、いろいろあるでしょうが、私は自分の考えを整理し人として成長することに価値を見出しています。 問答を繰り返し、相手の答えにそう言う事かと気づき、自分の考えを改めていくことは人間関係の醍醐味でしょう。

親しい友人の一人に私から見て大変身勝手な人がいます。 私は何かを言うと私の無神経な一言を厳しく追及してきます。 よくもそこまで言えるものだと感心しますが、ご自身の発言はあまり立派とは言えません。

あるときその人の気に障ることを言ってしまい、大変非難されました。 『そのようなことを言うのは普段からそのように考えているからだ』、言われてみればそうかもしれず、『そのように考えている』考えは脚色され、私はまともな人間ではないと烙印を押されます。

口に出して自分が感じたことを言ってしまうことは確かに自分の意志でコントロールでき、相手にとって不愉快なことは思っても言わないようにできます。 もちろんそれなりに注意力が必要ですが。 しかし、『思ってはいけない』と言われても少なくとも頭に思い描くことまではコントロールできません。

鮮烈な価値観を自ら会得した人、例えばある種の宗教に帰依し、その教義を深く取り込んだ人は少なくともその教義に反することは心の中で思い浮かぶことすら無くなるかもしれません。

誰かに憎しみを抱くことは好ましいことではありません。 なぜならそれは善悪の問題ではなく感情であり、それに支配された行動は生産的ではありません。 私はどちらかというと執念深い方、裏切られれば許す事が出来ない性質です。

信頼していた人に裏切られ、本人は些細な事と思っているようですが、私にとっては生き死にの問題だったことがありました。 そのことを忘れようとしても忘れられず、忘れようとすればするほど自分が傷ついてしまい、一切会わないようにしました。

復讐を考えたことはなく、憎しみの理由を説明する気もなく、つまりは蟠りを消すには忘れるしかありません。 その記憶が言葉となってしまうとむなしく、後味の悪いものです。

例示した友人はそのようなときにすかさず私の愚かさをなじります。 人の苦痛も解らずよくも平気で言えたものだと思っても言っていることは正しく、愚かであることを愚かと言っているのです。 その友人が尊敬する偉大な思想家であったなら素直に憎しみを消し去ることが出来たのかもしれません。

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[趣味]

名人

私の趣味の一つがオートバイに乗ることです。 オートバイの趣味はバイクをいじること、コーナーをせめて加速を楽しむこと、ツーリングを楽しむことなどいろいろあります。 転倒事故はライダーに大きなダメージを与えるので整備は重要です。

私は年齢が同じ人が店長のバイクショップにずっとお世話になっています。 人柄の良さだけでなく職人としての技術水準の高さに惹かれています。 しかし他のショップで整備してもらったことはないので技術水準が高いかどうかわかりません。

ある日ショップに立ち寄ると知り合いかホンダの原付のスーパーカブの後輪タイヤを外していました。 医療機関でコンピューターの仕事をしている人で、自分のPCは自分で組み立てる、私から見れば器用な人です。 最初は入門バイクに乗り、加速の良いバイクに乗り換え、今はお手軽なバイクに乗っている人です。

スーパーカブは自分でいじってみたいと思って買ったみたいで、リアタイヤのブレーキ整備とタイヤ交換をショップの道具を借りて自分でしてみようと思ったそうです。

私が行ったときにはリアタイヤは外され、ブレーキが分解されたところでした。 その人の手はオイルで真っ黒、店長に修理の方法を聞いていますが店長は余り教えません。 自分で考えろ、ということでしょうか。

分解した部品点数は数十個、そのうち数点を磨いたり拭いたりして元通り組み立てるのですが、手順を覚えていないと組み立てられません。 部品を差し込む場合は印がついていて合わせないとうまく行かなかったり、上下どちらからでも差し込めるが正しくないほうから差し込むとあとの部品が組み立てられなかったりします。

個々の部品は素人目にもよく工夫されていて、日本の工業製品の品質の高さを感じます。

本人は組み立てに苦労してうんざりし、オイルでべとべとになった手を洗いにゆきます。 すかさず師匠は『下手な奴ほど手を汚す』と叱責し、彼が手を洗っている間の瞬時にタイヤを交換してしまいました。 動きに無駄がなく、力も入れず簡単に作業を終え、手は汚れていません。 その間五分程度、持ち主は手を洗って戻ってきて『お前がやっていたら一時間では終わらんな』と再び叱責、匠の技を見せてもらいました。

自分のバイクの整備をこの人に任せて本当によかったと思った瞬間です。

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[会社運営]

分業

社員数が少人数の零細企業から少し社員数が増加すると自然に役割分担が出来てきます。 それは少しずつ発展して分業になって行きます。

当社は最近になって自然発生的に分業の動きが出てきました。 製造業では新型機械の導入や製造品の変更により仕事の内容が変化すると思います。 当社のようなサービス業ではIT化により業務の流れが変わったり、分業が行われたりしますが、人がパソコンに向かって行ったり営業に行ったり配達したりであっても分業が生まれてきます。

もう少し規模が大きくなると分業も効率化を目指したりしてさらに進化し、細分化するでしょう。

分業になるということはそれぞれの業務がきちっと定義されて、その業務を専任の人が行うメリットがあることが条件になってきます。

一人の人が定義できる多数の業務を抱え、自分のスケジュールにしたがって業務をこなしてゆくと習熟しなければならないことが多く、個々の作業効率が低い事や工程管理に労力を使うなどその仕事の困難度は高い一方で個々の作業品質は高くなくなります。

分業は作業者が複数の作業をこなす中で 作業者自身から発生する場合がある一方で、管理職が全体の業務フローを検証しながら効率化や作業品質の向上を目的として意図して行う場合があります。 基本は個々の業務=作業の定義に始まり、それを今までとは別の人が集中して行うことの効率性と問題点を検証しながら進めてゆきます。

分業による効率化を進めるために各部門の業務フローチャートを作成したらどうかと提案しました。 皆なるほどと思ったようですが、ぜひやろうという動きになりませんでした。 ある部署ではフローチャートに記載する作業をリストアップする、お仕事調べをしたそうです。 出てきたお仕事=作業の定義をすれば業務フローが書きやすくなるわけです。

だったら自分のポジションである経営者のお仕事調べはどうか、と考えてみました。 私は出来る限りルーティンの作業を持たないようにしてきました。 経営者の役割は会社全体の運営を行うことで、強いて言うならその仕事は調査、プラン作成、評価等時々によっていろいろなことをやっています。 人と話をしたり、本を読んだり、ひたすら考えて素案を作ってみたり、これが作業ということはバラバラです。

日々何をしたか、予定は何かといったことをスケジュール表と自分のノートに書いています。 もしそれを当社の職員が見たらいったい何をしているのか?ということになりかねません。 自分でも書いたものを見返して一体何をしているのか?とうんざりすることがあります。 結局経営者は結果だけで評価するしかなく、何をしたかで評価できない、分業もできない役割であることを改めて知りました。

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[生活]

孤独

孤独のイメージは介護業界にいるとまず独居老人を思い浮かべます。 一人で古い家に住んでいて、連れ合いは無くなり、子供は居てもどこか遠くに住んでいて連絡はほとんどない人です。

そこに長く住んでいて、数少ない銀所の顔見知りとあいさつするぐらいで人とのコミュニケーションは少ない人で、介護保険のサービスをしている我々も出会うことの多い人たちです。

若い人でも仕事場に行けば一人で黙々と作業をし、その作業も毎年同じ作業で作業ごとの打ち合わせもほとんどなく、仕事が終われば一人で帰宅する人です。 何か趣味を持っていれば休日にはその趣味で人との繋がりができます。

いま住んでいる大阪市の中心部では人が多く、買い物に出かければどこの店も人が大勢おられ、その中で一人孤独に買い物をすることになります。 古い家族意識が崩れて久しいですが、一方で人恋しく思っている人は多いかもしれません。 仕事では職場で食事会をしたり、取引先と懇親を重ねたり、家族関係が希薄になった裏返しかもしれません。 個人主義の歴史を持つ欧米でどのような感覚なのか暮らしてみないとわからないでしょうが、ハリウッドの映画でも独居老人が登場して同じような事が起こるのだと妙に納得してしまいます。

経営者が孤独とよく言われます。 取引先をはじめ職員との関係も濃密であるのに何が孤独なのか、と思った時期があります。 経営者の仕事は背負いきれない大きな責任を負いながら次々に決定を下し、結果に対する責任を持つことが仕事で、その点では会社の中で唯一の仕事をしている立場です。

決定を下す上でいろいろな人と会議での調整や取引先との折衝、その交渉方法の検討(私はよくロールプレイイングを紙に書きます)、本を読んだり調査をしたりします。 だから孤独など感じることはないように見えますが、多くの人が関与してそれぞれ意見が出て、意見を言わない人の意見を聞きただしたり想像したりして、よくもまあみんな意見が違うものだと感心します。

それはジグソーパズルのピースを床にぶちまけたようなもの、一つとして同じ物は無いけれど時間をかけてつなぎ合わせると一つの絵になります。 私は大抵完成した絵をあらかじめ描いていて、そのイメージでピースをつないでいきます。 どうしても見当たらないピースがあったり、途中で完成形と異なる絵が浮かび上がってきたりします。 多くの意見があり、誰もが真面目に大きな目標を意識して取り組んでいて、場合によっても対立すら生まれて悲しくなってきます。

何が悲しいのか、自分の考えに共鳴できる他人の考えがないこと、これは悲しくなるほどの孤独です。 天才の考えは一般に受け入れられず孤立することが言われますが、私は凡才、当たり前のことを考えているだけです。 孤立する天才は自分が天才であると意識しているのかどうか知る由もありませんが、凡才が凡才を意識しているがゆえに孤独感もいっそう募ります。

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[価値観]

伝言ゲーム

先日求人サイトの原稿作成でインタビューを受け、起こされた文章が送られてきて違和感を覚えました。 当社の理念の中のビジョンが『働きたい会社№1』、それをテーマに取材に応じたのですが、肝心の部分が『働きやすい会社№1』になっていました。

読み流しやすい表現の違いですが、働きたい会社は働きやすい会社ではありません。 『働きやすい』は残業が少なく、休暇は取りやすく、人間関係が良くてストレスも少ない、給料も多い、楽にお金が稼げるようなイメージを抱きます。

『働きたい会社』は仕事は困難であっても、たとえ給料が低かっても、不意の残業があっても、事務所は狭くて古い建物であってもその仕事をしたい、私の場合働きたい対象は会社というより仕事にあります。

もちろん給料は高いに越したことは無く、残業は無いに越したことは無く、休暇は取れて福利厚生が充実しているに越したことは無いのですが、医療介護業界は一部の資格職を除き賃金は低く、残業は恒常的でも働きたいと思う人は多くいるものだと思います。

採用面接をしていて「どのような会社で働きたいですか?、どのような仕事をしたいですか?」に対し「社会に貢献できる仕事、お客様にありがとうと言ってもらえる仕事」と答える人が多いです。 私は「世の中の仕事はすべて社会に貢献していますよ、貢献の対価は利益で利益がなければそもそもその事業や会社は存続できませんよ」と意地悪く切り返します。

「社会に貢献していることを実感できて、なおかつお客様からありがとうと言ってもらえる」仕事ということになるわけですが、お客様がなんと言ってくれるかどうでもよくて、役に立つことが重要なポイントです。 車いすの選定で、お客の好みを聞いて不適合な車椅子を納品してもお客様は『わがままを聞いてくれて』ありがとうとというかもしれません。 基本は役に立つ、利益が得られる、つまりはプロの仕事でしょう。

そのような選定に『ありがとう』の一言を求めるのは要求過大と思います。 我々の仕事は舞台演劇の黒子、観客は俳優の演技に拍手を送りますが、舞台の見えないところで証明や装置を動かしている多くの人がいて、舞台演出を高めています。 観客は誰も証明が良かったと拍手しませんが、照明がここ一番で主役を外して投影したらその舞台は台無しです。

仕事はプロ的であればあるほどプロ以外のものにその重要性やスキルはわかりません。 『ありがとう』と言われ続けたいなら拍手を受ける仕事につけばよい、それはそれでやりがいのあるプロの世界ですが、拍手も受けないプロの世界があり、確実にプロの貢献はあります。 想像すればよい、ミュージカルが炎天下でBGMなしで行われるところを。

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[経営]

経営者の仕事

採用面接で最後に『どのような事でもよいから質問してください』と聞きます。 面接の終盤、いろいろ質疑を重ね、採用側は何を応募者に期待しているか片鱗は理解できたはずで、ではこの会社はこうですか?と聞いていただく、しかし質問者としては何に関心や疑問をもったか?を知りたいので質問しています。

当社は中小企業ですが、採用一次面接で代表が質疑することはそんなに多くはないと思います。 応募者にとって努めるかもしれない会社の代表がどのような価値観でいるのか聞きたいでしょうし、人がすべての会社にとって応募者がどのような人であるのかぜひ知っておきたいことから一次面接に出ています。

『大丈夫です』と答える応募者がおられます。 何が大丈夫なのか、揚げ足を取りたくなります。 それまでの質疑でいったい何が判ったというのか、これだけミスマッチによる離職が多い、それは実際にお金を稼ぐ=価値を生むための厳しさと仕事に対する応募者の考えの甘さのギャップからきている事だと私は決めつけています。

だから納得のいくように質問をしてくれと言っています。 現実の厳しさに対処する方策として企業によっては理不尽な責めを働く人に課している場合が多いようです。 受注するまで返ってくるな!とかです。 そんなことで受注件数が増えるとは思いませんが、利益を上げるには何らかの手段を講じるのが必要です。 どこの会社も努力しているわけですから。

だから経営者はどのように考えているのかが大事に思えるのですが。 関心を持ってもらいたい、どうせ聞いても適当なことを言うだろうと思うなら即刻席を立って帰ればよい、そもそも信頼に足らない経営者のもとで働く意味がどこにあるのか、経営者の考え方、行動の断片をこんな会社で働けないと思うなら経営者はいったい何を仕事としているのかもう少し考えればよいと思います。

話は変わりますが先日税務調査が行われ、私の住居の家賃を会社が負担していることに当局から疑義が生じました。 要は住居兼事務所であるから会社が家賃を負担するというものですが、税務当局は事務所の機能を持っている要件として事務所である表示がなされ、人が自由に出入りできること、と言ってきました。 その確認に訪問したいとまで言ってきました。

私の抗弁は『事務所は執務するところ』で経営者の仕事には人と面談することも多いですが、私の場合机でパソコンと電話があり、考える環境=静かで快適な部屋であればよく、なおかつ出向かなければならない場所=そこでは外部の人と面談したり、職員と会議をしたりしますが、に近ければよいのです。

税務当局は事務所という定義を客観判断するために例示している文言を切り貼りして事務所でないといってきました。 それなら介護事業者が欧州車を業務で乗り回す必要があるのか、銀行の支店長室に豪華な内装を施してあるのは合理的なのか、世の中には不思議が満ち溢れています。

そもそも経営者の仕事はいったい何なのか、そんなことについて人と面談すること、会議に出席すること、と規定してしまえば会議に出席すらしない経営者も沢山見聞きしてきました。 仕事=何らかの作業と決めつけるのはいかがなものか、税務署が経営者の仕事内容を規定してそれに従って仕事をしていたら経営判断を誤り倒産してしまったという笑えない話が生まれるでしょう。

税務署は徴税業務に特化すればよく、経営マターや経営者マターに口出しすべきではないと思います。 さらに言えば当社に応募しようとするものや現職員は経営思想をしつこく確認すべきで、それにこたえられない経営者の会社こそ私は問題と思います。

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