監査役BLOG

会社を見る鳥の目

経営者の目線で、日々の思いやできごとを綴っていきます。

[役人]

命がけとチャンバラ

 このブログでも何度かチャンバラ小説について礼賛しています。 チャンバラ小説は武士の世界を小説にしたものですが、武士の世界は支配階級であることから政治、官僚、そして本職の戦闘があります。

織田信長をはじめとする封建領主がテーマになれば政治や戦いの戦略が話題になります。 日本の多くの政治家は自らの政治の事故との参考によく読んでいます。 国家公務員の読書対象として読まれているかどうか聞いたことはありません。 企業経営者の読書対象にはよくなっています。

同じ時代背景で農民の場合と比較して大きく違う事は不祥事の懲罰です。 武士は『上意である』の使途ことで切腹を命じられ、逃れることはできません。 一方農民の世界は不祥事を起こしても村八分の処分、葬儀と火事以外は当人に関わらないというもので、傷害事件を起こしたりすれば取り方により逮捕され処罰を受けますが、おおむね緩いものです。

武士が厳しく律せられるのはもともと軍人であることよりも大きな権力をもつ者に対する責任があると思います。 企業で不祥事が発生した場合、ほとんどの代表は記者会見で深々頭を下げて謝罪します。 会社代表は最終責任を負うだけでなく大きな権限をもっているから直接不祥事に関与しなくとも謝罪し、程度によれば謝罪します。

私は最終責任についての認識が若いとき比較的薄く、職員が何万人もいて現場の課長の一存で決めたであろうデータ改ざんで代表者が辞任した場面ではやりすぎだろうと思いました。 実際政治家や企業のトップが自らの組織の不祥事で『俺は関与していなかった』と開き直る人がいますが危機管理意識の無さだと思います。 現場の問題であっても自働車のエァーバックのタカタは会社がなくなりました。 製品の不具合で人もなくなっています。

そこまでの責任を求めるのには行き過ぎた面もありますが、チャンバラ小説で下級武士が主人公の作品を読んでいるとよくわかります。 明治期まで過失相殺という概念がなかったと聞いたことがあります。 過失相殺は交通事故でよく話題になりますが、自己の当事者間の過失の程度から損害賠償の程度を決めるというもの、例えば出合い頭の衝突事故であれば基本としてどちらに優先権があるか決められています。 さらにスピードを出していたか、ブレーキを掛けたかなど証明できた結果から7対3の過失割合で相手の損害を賠償します。 当事者Aの損害が100万円、過失割合が7、当事者Bの損害が10万円で過失割合3とするなら、当事者Aは相手の損害の7割である7万円を保証し、当事者Bは相手の損害の3割である30万円を保証します。 過失割合の小さい当事者Bの賠償額が大きく違和感があります。

過失相殺がなければ何らかの不祥事が起これば誰が一番悪いのかを特定します。 特定されるとその者はすべての責任を負うことになります。 不祥事の程度に応じて訓告、戒告、減俸、切腹などの処分が行われるようです。

企業や政治家、上級職の公務員は辞任で、最近の財務省職員の文書改ざんや国会偽証?、セクハラ事件では辞任で退職金は支払われます。 マスコミの批判は退職金の金額まで公表し、退職金支給について批判的です。

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[未分類]

品格

社内で品格という言葉が話題に上ります。 現社長が品格を事業の基本にしたからです。 品格とは何か? 品格の備わった人は上品に見える、当てはまらない人を多く見てきました。 上品に見えても話をすると教養がなかったり、すべての事をお金に換算したり、小さな嘘が平気であったりすると おや!と思います。

よく気が付くけれど素知らぬ顔をしていて、誠実、朴訥、勇気があって信念をもっていてなどが品格にあたるのではないかと思っています。 そのような人にはめったにお目にかかりません。 このブログでも紹介したチャンバラ小説に登場する愚直な武士は品格の備わった生き方として作者は表現しています。 多くのチャンバラ小説で同じような武士が主人公として描かれていて、義や忠に生き、迷いがありません。 多くは家族や地位やお金に恵まれない剣客です。 日本の高度経済成長期に多くのチャンバラ小説が書かれ、時代の批判として評価を得たのでしょう。

再びフランクルの言葉で品格につき次の言葉があります。

『この地上には二つの人種しかいない。品位ある人種とそうでない人種である。』

企業経営でも人生でもゆらぎなく成長や発展を遂げるのは品位が基礎になっている場合も多いと思います。 品位の無い企業や人が大きな会社になったり大金持ちになったりします。 しかしいずれその企業が消滅したりその人生が忘れられたりすることを最新の経営学者は予言し、哲学者は警告しています。

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[価値観]

[未分類]

快楽と感動

 再びフランクルの言葉です。 『人間の幸福はどれだけ快楽を得たかではなく、どれだけ感動を得たかによって決まる』がテーマです。

介護事業を営んでいると同業の経営者にお会いする機会が多くあります。 人の性格の安全・安心に関わる仕事で、ご自身の考える福祉ありきで事業を営んでいる人がいます。 基本にあるのは他人への思いやり、しかしその考えで事業を営んでも利益を確保することが難しい場合が多くあります。

そもそも国が作った制度で税金を使った事業ですから規制だらけ、その規制に沿う必要があります。 事業主がここまで必要と思っても制度上認められないことが多く、また個人感覚としての福祉の手厚さの程度は大きな幅をもちます。 制度規制の幅を超えた福祉の考え方の良否はさておきそれが制度ビジネスです。

ならば制度内で一番利益を生む部分を事業として展開する考え方があります。 利益獲得を中心に据えて事業を営まれます。 この考えの大抵の方は事業が上手く行き、所得が増えると高い車、趣味、高額の住居などにお金を使います。 いわゆるお金持ちの生活を満喫されます。 善悪の問題ではなく価値観の問題で、税金を使う仕事をしていてベンツに乗るか、等と言う批判は全くする気がありません。

このお金持ちの生活は快楽多き人生になり、お金で買える感動も多くなります。 一方においてストイックな人生を送る場合を考えてみましょう。

私はお金を儲ける=商売をうまくする=ビジネスモデルを考える事か好きで、苦労して利益が稼げた時に大きな喜び≓感動を得ます。 それが喜びで事業に携わっています。 快楽にはまり感動を忘れるのが怖くて所得をぎりぎりにしています。 本当に質素な生活で事業の感動を糧に幸せな人生を送れるか試しています。 そして今のところ経営の仕事はうまくいっており、仕事主体の人生が幸せに思えています。

 

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[プライベート]

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ひとり言

 一人暮らしをしていてふと過激なひとり言が口から出てきます。 大抵は以前怒り狂ったことを突然と思いだし、暴言に繋がります。

30年前に嫌な思いをしたことがその場の情景もリアルに思い出し、『やめろ!』などと言ってしまいます。 一人だから良いものの周囲に誰かいると不審に思われるでしょう。 あまりに古い事なので普段思い出したりそのことを言われても思い出せるかどうかの事なのですが、風化もせずに鮮明に出てきます。

私は記憶力が悪く、テストではいつも苦労していました。 たまに悔しくて暗記を努力すると今度はいつまでも忘れる事が出来ません。 なんでも一夜漬けで点数を稼げる人は覚えた後すっかり忘れる事が出来るのがとても羨ましく思いました。

私もある入学試験で苦手の英語だけで合格が決まるので何カ月が必死で英文翻訳を行い、受験者のトップクラスで合格したとき、私も賢くなったのかと誤解しました。 覚えた英語能力は瞬時に消えてゆきました。

そんな記憶能力の自分が突然30年前のことを鮮明に思い出すのは部屋の掃除をしていて30年前の手紙が出てきたようなものです。

自分の記憶の特徴の一つとして記憶したことがデフォルメされることです。 飼っていた犬が実は獰猛な顔をしているのに記憶の中ではとても愛らしい顔だったり、写真を見て違うと思うようなことです。

自分の記憶の蘇り特徴は自分の価値観の裏付け、価値観として今のタイミングで30年前のある事件を思い出さねばならないとかこの犬は実はかわいい顔をしているとか思いが影響していると思います。

誰もが見るもの、聞くもの、感じたものを正確に記憶していると聞いたことがありますが、いつどのタイミングで何を思い出し、考えの参考にするか各人の価値観でその人はそういう引き出し方が生きていく上で必要と思っているからです。 その人が実際に生きている『今』に適合しない価値観であってもにわかに変わることはないと思います。

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[未分類]

[生活]

小さなこと

 フランクルの言葉に

『小さなことが気になるのは自分が神のように完璧であるべきだと思い込んでいるからだ』というのがあります。 ドラマの相棒で刑事の杉下右京が小さなことを気にして推理し、事件を解決する筋立てが基本になっています。 そして警察組織に馴染めないまでも杉下右京は完璧な推理者として描かれ、次々難問を解決してゆき、完璧な人格を表現しているように思います。

私はキリスト教徒ではないので神の存在を認めていませんが、完璧を求める人との出会はあります。 それらの人には少し窮屈な感じを受けますが、なるほどと思う事も多くあります。

フランクルはこの言葉で何を表現したかったのか意図は判然としませんし、宗教や文化の、価値観の違い、そしてアウシュヴッツの体験などを考えれば共感できないことなのかもしれません。

小さなことは気になります。 単に些細なことであればそれにとらわれ本質を見誤ることを避けるように言っているのかもしれません。

一方でキリスト教圏の言葉に『神は細部に宿る または 真実は細部に宿る』というのがあります。 一見矛盾して見えますが、日本のことわざにも同じようなものが見られます。 真意を確認したことはありませんが。

私の結論は小さなことでも拘るべきこととそうでないことを分けて考えればよいと考えました。 会社の中でささやかな節約、例えばコピーをするとき出来る限り白黒印刷をして5円を節約するとします。 節約の感覚をもっていれば大きなプロジェクトでちょっとした節約の発想から数千万円が節約できる、コピーの5円も積もれば大きいのですが、節約する感覚の重要さは5円を上回るものです。

私は自分の考えをまとめるときに裏紙に鉛筆で書いてゆきます。 木遺棄される裏紙は私個人の書類の中にも山のようにありますが私は間違いを消しゴムで消し、上手く表現できないことを炭に絵をかいて1枚の裏紙に考えをまとめ切ることに情熱を注ぎます。 書ききった後、その裏紙の上で鉛筆をナイフで削り、丸めて捨てます。 それで1枚の紙を最後まで使い切った気持ちになります。

ではとらわれる意味の無い小さなこと、ちょっとした言葉の行き違いをくよくよすること、などでしようか? 人によってはその小さなことをこだわるあまり暗くなってしまい、前出のフランクルの言葉が重く響きます。

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[生活]

人生は結果の責任まで人間に要求したりしない

 タイトルはオーストリアに生まれた精神学者でユダヤ人でアウシュビッツで生き延びたビクトール フランクル氏の言葉である。

氏はロゴセラピーを提唱し、私はその言葉に救われたことがあります。 タイトルで気づかれたと思いますが、人生と人間をそれぞれ別人格として表現しています。 人は人生を演じるわけですが、演劇に例えれば役者=人は演技(人生)の稚拙なことまで責任追及しないという事でしょうか。

自分=私は必死に人生を歩み、苦しみや喜びをかみしめています。 苦しむのは私で、人生ではありません。 喜びも同様です。 不幸を感じて苦しんでいる人が人生が良くなり喜びを感じられるように人生に期待するのは間違いで、人生がそれを演じている人間に期待しているのです。

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[他業界]

個人情報

 母親が入院し、私は言ったことのない病院に受診することになりました。 母親は92歳、高齢者施設から初めてのヘルパーさんに連れられたので不安であろうとその病院に行き、『母親がMRI検査と聞いたが、どこで検査しているのですか?』とMRI受付で聞くと意地の悪そうな中年の女性がマスクをかけたまま『個人情報です、一体どなたですか?』と高圧的に聞いてきました。

その言い方があまりに不愉快で、母親の名前を私が言った診療科に確認しながら『あなたの名前は?』とまた高圧的に聞いてきます。 ここの病院は職員教育をやっているのか、そもそも病院での個人情報の取り扱いについてマニュアルを把握しているのか?と疑問に思いました。 私に対応する途中で同僚の職員は『私に任せて』と得意満面に言い、同僚職員は『お願い』と言って出ていきました。

高圧的に誰何しただけで何の確認もできない中でどこと言ったのですからいい加減な個人情報管理です。 その病院に最初に行ったときに診療科の所在をある受付で聞いたら『ここは〇〇です。 あなたは何をしに来たのですか?』と逆質問、外来の診療科受付の所在を聞いただけでこの対応、この病院の職員は全員不愉快なのではないか? と思いました。 次に急性期病院にお世話になるときはホームドクターに違う病院を紹介するようお願いするつもりです。 病院にとって患者とその家族はお客様、その対応が望まれます。

今日法務局に登記簿謄本を取りに行きました。 8時30分から始業です。 始業の5分前に行きました。 2分前になると受付業務の男性職員がどうぞ、と受け付けてくれました。 かつてどこの省庁の職員が一番感じが悪いかというランキングで法務局は一位でした。 同じ法務局に以前に行った時には不愉快そうに働いている何人かの女性職員が見受けられ、よくもあんな嫌な顔をして仕事をするものだと思いました。

お邪魔した法務局はカウンター越しに全職員の働く姿が見渡せます。 そのような職場で不貞腐れた態度で仕事をしているのは納税者として不愉快です。 しかも法務局のサービスメニューは遅れていて、利便性が悪いものです。 民間移管すればすぐにネット上から多くの謄本が取得できるようになるでしょう。

人の健康にかかわる病院や登記事項の管理を行う法務局などの職員が競争がないのか患者が来るからか不愉快な職員が多いことにうんざりしてしまいます。 とはいえ近い将来どちらも消えていく事業体でしょう。

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[会社運営]

過激な表現

 何かを待つことは人によっては辛いものである。 それが数秒の事もあるし、数日、数カ月、あるいは数年、待つのは何かを仕掛けたり依頼したりした結果を待つわけだが、考えて仕掛け待っている間に状況がどんどん変わってくると初めの仕掛けの意味がなくなったりしてきます。

このブログでも待つことの辛さを何度かテーマにしたことがあります。 それほど自分にとって何か変化をもたらすことを仕掛けて状況を変えようとするいらちな性格と思います。

会議で提案し、会議の参加者の反応が悪いと表現がどんどん過激になってゆきます。 皆は初めの比較的穏やかな表現の提案を懸命に考えているのですが、その数分が待てず過激な表現で追い打ちをかけてしまいます。

どうして皆の反応が鈍いのか、いらだつ間に過激な表現を考え口をついて出てしまうと皆の腰がさらに引けてしまいます。 小説の中でのやり取りで同じ場面がありますが脅して賛成を引き出す場面が多いようです。

会社の会議でメンバーを脅しても仕方ありません。 もちろん不祥事の隠ぺいなどでは取締役会で代表が他の取締役を暗に脅すことは容易に想像できます。 しかしテーマが会社の危機であっても過激な表現を使った脅しは効果的ではありません。 意見が理解されないのは注目していることが違うからで、丁寧に説明すると同じことを見ているはずなので『そういう事か』になり急速に理解が深まります。

同じ会社で情報が開示されていれば同じ土俵に立っているはずですが、注目していることが異なれば同じ土俵に立っていないことになり、まず同じ土俵に立ってもらおうとしなければなりません。 『以前にお配りしした資料に書かれたこの部分はこういう意味にとらえられるのでこのようにしたい』といえば少し説得力が出ます。

いつもこの一手間を惜しんでイライラしています。 最近は少し賢くなって比較的丁寧に提案を説明して数日後同じ問題を会議ではかります。 かなりの確立で賛成が得られます。

以前一人のメンバーが半年以上同じ提案を主張し続けました。 半年後、そのことに気づいた別のメンバーが提案に乗り、一気に決議に持ち込めました。 実現するのは難しいけれど有効な提案でした。 誰もが会議で苦労しています。

近年会議のファシリテート(容易にすること)が話題になっています。 会議の目的は情報の共有と意思決定であるとすれば出来ていない会議が世間でも多いのでしょう。

最近はまっているチャンバラ小説(武士の世界の小説)で会議のシーンが出てきます。 現代の会議と違うのは情報量、詳細な情報がタイプされて配られることはありません。 情報は主催者が判断に関わる部分を言葉で伝え、悩ましい決定を迫ります。 侍の矜持などを持ち出してパワハラするシーンが多いようです。

よい事は皆の合意、そのための情報共有は欠かせません。 現実にはチャンバラ小説に出てくる武士の会議と変わらぬシーンは現代でも多々あるように思えます。

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[人間関係]

課題解決

 ある部署で人間関係の問題が起きていました。 その部署の業績は芳しくありません。 人間関係のもつれは爆発寸前のように報告が来ます。 もめている人を少なからず知っていて、そんなこともあるだろうと思いました。 管理職は何をしているのか、次に考えたことです。 部署の業績が悪いのは管理職の考え方が間違っているらしいことは把握していました。 その部署の上に上級管理職がいるのでその管理職に直接指示は出せません。 指示できないなら世間話をする中でその人が本質を悟る話題を織り交ぜようかと思いましたが、その管理職は私に対して避けているようです。

そのまま時間が過ぎて、ドラッカーの解説書を読んでいたら『問題に集中してはいけない。 問題が解決してもせいぜい元に戻るだけである』とありました。 せいぜい元に戻ればよいではないかと思ってしまえばそれでお終いです。 その人間関係のもつれは本人たちだけで起こっていることではないのです。 管理職の方針や戦略が優れていないために成果が出ない、部署の人間は全般的に成果の出ていないことが原因でぎすぎすしている。 人間関係のトラブルは仕事がスムーズに流れていないなどです。

モグラたたきで一つ一つの問題に対処して組織の改善を図る方法もありますが、改善しようとする人の負担は大きくそれが管理職であればそれ以外の仕事は出来なくなるでしょう。 全員が成果を上げることに着目すれば仕事は忙しければ工夫するし、職員も生き生きしてきます。 管理職が暗いから部署も暗く、成果も上がらないとの判断は正しそうですが、陰気でいつもうっとおしい顔でいる管理職がマネジメントしている部署が高い成果を達成していることもあります。 いくらくらい顔をしていても何をすべきか、それに集中して効果的な指示を出しているのでしょう。

個人にあてはめても同じことで、自分の欠点の修正を気にしている人は成果に集中できずよどんでいます。 成果を上げている人はセンスの悪い服装でも言い回しに癖があっても人は寄ってきて成果に繋がっていきます。 とはいえ個人ベースで皆から言われる欠点は直した方がよいでしょう。

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[未分類]

自利利他

 ドラッカーの本に書かれていたことに『いつも気難しく不愛想であるが多くの人に慕われる人がいる』という解説がありました。 長い間引っかかっていたのですが、優れた職人をイメージしていました。

無愛想で皆に頼りにされている人は確かに職人の人物像です。 その職人が慕われたり尊敬を受けるには優れたスキル以外のものをもっていなければなりません。 自分の仕事のパーフォーマンスを高めるため技量を磨き、その技量を他人のために生かして自ら誇らずであれば自利利他でしょう。 自らの技量の使い道を特定の他人のために使い、恩着せがましく言わなければ良き人になります。

しかしその技量をより次元の高い、社会貢献や社会正義にのみ捧げるのであれば尊敬される人になります。

現代の会社の中では殆どの職種において職人的技量が求められることになります。 報酬は技量の高さやまつわる責任の重さにおおよそ比例します。 法務担当が弁護士資格をもっていれば高い報酬が支払われるかもしれません。 営業職でも高い販売力やセンスをもった人はライセンスではないにしろ技量をもっていることになります。 この高い販売力をもった人が同僚に販売方法を指導して部署の成績が上がれば自利利他になります。 自ら販売する商品をより購入者にとって良いものに組み替えて、会社の評判を上げる事が出来たらさらに次元の高い営業者になり、尊敬されるでしょう。 取扱い商品のメーカーが公害を出しているとか毒性があるとかに注目し、それらの商品をボイコットして自らの業績を上げる事が出来る営業者はイノベーターになります。 物を販売することは購入する人がいて、社会に貢献しています。 販売する商品の属性に着目してマーケットの構造を変えることはさらに次元の高い営業になります。

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