監査役BLOG

会社を見る鳥の目

経営者の目線で、日々の思いやできごとを綴っていきます。

[他業界]

公務員給与

人事院は2014年度の一般職国家公務員の月給とボーナスを7年ぶりに上げたそうです。 増額は3000億円、それが景気を下支えする効果があるとか、ないとか話し合われています。

国債、つまりは国の借金が1000兆円を超えて国家のデフォルトがささやかれている中で国を会社に見立てた時に社員の給与を上げるというものです。 通常民間企業では考えられないこと、デフォルトになれば人事院に日本航空を再生させた稲盛氏を起用することになるのでしょうか。

同窓会で年収など下世話な話題になった時、一番収入の多いのは国家公務員、同期には上場会社職員もいます。 だから現行水準が決して低いとは思いません。

次に仕事内容ですが、実際に役所に行って窓口でスマートな仕事ぶりとは思えません。 やたらに紙が多く、説明は解りにくく、そんなに煩雑で多くのルールを作らなければならないのか、公務員の仕事はもっと単純化し、ユーザーである国民が自分で理解できる制度にしなくてはならないと思います。 解りやすく納得性のある行政の運用があり、それなりに接遇能力の上がった公務員がそれなりの所得を得るのは納税者として納得できますが、多くの役所で納得のいかない職員を多く見かけます。

最近目に付くのが業務の一部の外注化、公務員でない職員が窓口で応対してくれます。 意゛前に比べるとはるかに接遇が良くなりましたが、奥に座る公務員は仕事をしているのかどうかわからない人が多いように見受けます。 企業でもそういう人がいて悩みの種ですが、給料が税金で出ているとなると一言言いたくなるのは人情でしょう。

害虫やパートの導入で一見人件費が下がっているようですが、実態として国家公務員給与水準と民間給与水準の差額を利用しているだけで、その多くが国が問題にしているパート職など不安定雇用です。

どことは言いませんが省庁によっては7割方の職員を解雇し、民間企業委託してはどうでしょう。 もしくはすべて民間企業に委託すればどうでしょうか。 もしくは海外効率的な事務をしている国に委託してみては。

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[社会]

食料自給率

私は大学の専攻が農学部農業経済というところでありました。 現在は在籍した講座が無くなっているそうです。 農業経済ですから食料自給率はよく話題になりましたが、40年前の当時でも自給率が低く、周囲で専門に自給率を研究する人はいなかったように記憶しています。

先日の新聞に食料自給率の記事が出ていました。 カロリーベースで4年連続39%だそうです。

専門分野であったにもかかわらず当時の自給率は記憶しておらず、いろいろな自給率に戸惑ったことが記憶にあります。 ある数値はカロリーベース、ある数値は金額ベース、当時の政権であった自民党は農業者からの集票に依存していたので統計数値は政治的に都合の良いものが利用されたのかもしれません。

近年世界的に自由貿易の動きがあり、日本農業は岩盤規制の一つとしてやり玉に挙がっています。 日本農業が他国の農業に対抗しうる要素はいくつもあり、人件費・広い農地など不利な生産要素もあります。 数年前の国際間の農産物貿易は農産物ではなく水自然の取引という議論がなされました。

世界の大河の上流国でダムが建設され、農業用に利用され、下流国は農業ができなくなるという問題から発展しました。 日本の水資源は豊富で広大な農地に必要な莫大な水が話題になったことは稀であったように思います。

40年前に日本の自給率を100%にするのは簡単で、日本中のゴルフ場を圃場にすれば簡単に達成できるという議論でした。 本当かどうか知りませんがゴルフ場の総面積は四国に匹敵するらしく、もしそうであればかなりの食糧生産に繋がります。 しかし水資源は確保できるのか、環境問題はどうかというと疑問が残ります。

近所の低価格が売り物のスパーで野菜の原産国を見ていると日本の食卓には世界各国から産品が届いています。 国産品に比べ低価格で、価格だけでは相当の改善を図らなければ対抗できないでしょう。

冷凍食品などは殆どが中国産、日本人の胃袋には万国旗がはためいていると思います。

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[生活]

節約

コーヒーのペーパーフィルターを買いに行きました。 一人暮らしなので1~2人用のフィルターです。 製品品質に差があると思ったことがないので低価格で評判のドンキホーテに行くと有名ブランド?のフィルター40枚入り124円(本体価格)でした。

他所も見てみようと思い100円均一の店にゆきました。 ドイツ製と表示された90枚入りが100円なのです。 開店前から人が並ぶドンキホーテは高額所得者の多い天王寺区では同じ商品なら区内の大抵のスーパーより安く、開店前から客が並びます。

同程度のもので単価が低いとはいえ二倍以上の価格差には驚きます。 食品ではどうかというと加工食品に関してドンキホーテは安く、牛乳・ヨーグルト・食パンなどはより安い価格を見たことがありません。

果物や野菜、肉はというと業務スーパーが安い価格で販売されています。 その中でも極めつけに安い野菜は中国産が多いです。 加工食品、特に冷凍食品などは中国産・韓国産が圧倒的に多く、野菜同様不安があり買わないようにしています。

私がここまで価格にこだわるのは節約のためもありますが、価値観でしょうか。 節約という点ではエアコンや照明はなるべく使わないようにしています。 もともと暑がりで酷暑の時にはエアコンをつけたままで、わざわざ吹き出し口の下に椅子を持って行ってそこで涼んでいました。 しかし加齢とともに冷気を浴びることで気分が悪くなるので最近はエアコン設定温度も29℃にしています。

私のように節約を心掛ける人がいて、節約できたものを金額換算してそんなに大きな金額にならないことに驚いたことがあります。 それでも節約を心掛けるのは価値観でしょうか。

ちなみに私の節約は次の通りです。
・靴:毎日変えて履く。修理できるものは修理する。  購入するのは年間1足程度。
・スーツ:特に気を付けることはないですが、体型を崩さないようにして長く着ます。 流行のものは買わず、気に入ったもので高額の売れ残り商品が多いと思います。
・飲み物:ペットボトルにお茶を詰めています。
・移動:基本的に自転車で行います。以前は30㎞/日、今は10㎞/日程度です。
・風呂:シャワーで済ます。ただし、夏は2回はシャワーを浴びます。
・本:ほとんど図書館で借ります。

逆に無駄なものは次の通りです。
・タバコ:どうしても禁煙できません。
・オートバイ:あまり乗りませんが意外にお金がかかります。
・住居費:家で仕事をするので14階建てマンションの最上階で84㎡のところに一人で住んでいます。

あまり神経質になっても窮屈ですが、金銭的な節約を思うのであればお金を使わないことだと思いました。 結局お金を使わなければ究極の節約方法、ちょっとお腹が空いても我慢できるなら外食しないことで支出は抑えられますし、ダイエットに繋がります。

幸か不幸か食材費を節約したおかげて自分の作る食事がまずく、減量に成功しました。

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コミュニケーション

私はもともと事務屋で、営業出身ではありません。 事務屋といってもいろいろで、経理などは社内営業ですから面談するのは自社の職員が多くなります。 私は総務出身なのでいろいろな業界の人と接触しますが継続反復の面談は少なかったように思います。

また相手の業界や担当者を知らない事が多いのに大事な交渉であったりします。 たとえば不動産、遠隔地の土地購入などは初対面の業者との面談で大きな金額が動くことがあります。

今の業界で反復して面談する相手は仕入れ先の担当者ぐらいでしょうか。 小売なので販売先は不特定多数になりますので担当以外が面談することは稀です。

結局以前と同じように頻度の少ない面談になります。 採用面接なども典型でしょうか。 採用に至った人はその後社内で面談しますが、面談内容を覚えていることは稀です。

初対面でどのように効率的に面談するか、一番知りたいことは相手の実力、価値観などで、ズバリ聞きたいことを聞くと気を悪くする人もいます。 変化球の質問ばかりではなかなか本質が見抜けません。 交渉術の解説では相手に先にメリットを渡し、次にこちらのメリットを追求するというのがあります。

相手も同様に知りたいことがあるわけですから何を確かめたいかアプローチで掴み、ズバリこちらの意思を伝えます。 大抵は彼らができる最大のメリットの片鱗を出してきますが、それがしょぼい物であれば本命が出てきても大したことはありません。 経験豊富な営業であれば少しずつ小出しにしてきます。 この交渉がまどろっこしくて大抵そのタイプの担当者とは取引しません。

コミュニケーションは情報の取引ですから100に10を返されてもと思ってしまいます。 相手は「まあまあそう焦らずに」と思っているのでしょうが、焦っているわけではなく、無駄に過ごしたくないわけです。 私が野球の選手でしかもピッチャーなら投げる球の殆どがストライクを狙って投げます。 うまくボール球を投げるほうが防御率はよくなるのかもしれませんが、プレーヤーとしても観客としても私は早く勝負したいほうで、それが欠点なのかもしれません。

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[会社運営]

推理

私は刑事ドラマ『相棒』の再放送をよく見ています。 主役の杉下右京警部は殺人事件の解決で細かい事実を積み上げて結論を導くところがよくできたドラマと思います。 いろいろな証拠から私も推理しますが、なかなか作者を超えることができません。

もちろんドラマの構成から犯人は容易に判るように設定されていますが、暴いてゆくプロセスには仕掛けがあり、作者の工夫があります。

経営判断、特に新規ビジネスへの挑戦や既存ビジネスの収益性改善などについてどのように判断すればよいかどこの会社でも検証が行われます。

新規ビジネスではどれくらいの期間で軌道に乗せられるとか、既存ビジネスとのシナジーや要員確保など検証項目は多岐にわたり、判った事、わからない事、それぞれのプラス要素とマイナス要素を対比させます。

私は大雑把で楽天的、よその会社がその事業で利益を計上しているなら当社でも計上できるはず、やってみればよい。 ただ当社が取り組むべき事業か? それは一番悩むところです。

薬局と高齢者介護事業を営む傍らでパン屋さんを併設する意味はかなり難しいと思います。 たとえば高齢者がのどに詰めにくいパンを開発するとか、ダイエット食のパンを作るとか、腎臓疾患の患者さん用のタンパク質フリーのパンだとかになると思います。

世の中にある事業は存在価値があり、社会貢献を果たしています。 当社の応募者で社会貢献がしたいから当社を選定したという答える人がおられますが、確かに高齢者介護の事業は顧客の感謝の念が実感できていかにも社会貢献と感じます。

一方企業として事業を営む上では利益確保は事業存続のかなめですから避けて通れません。 先ほども言ったようにどのような事業でも世界で当社だけが営んでいるわけではないですからかなりの割合で同じ事業を営む会社は利益を出しています。 赤字の会社は事業運営に問題があるわけで、どんな方法でも赤字になる事業はそもそも世の中に存在しません。

先ほどの応募者の話と同じように私も事業の社会貢献について常に考えます。 それは事業の収益性、安定性のためで、こきゃに感謝されたいからではありません。 社会貢献の本質がより高度なものであれば社会はその事業を支持し、存続させようとするからです。

では高度な社会貢献とはなんだろうと考えると大変難しく、例えば最近20年では失業率が問題になっていますから雇用を拡大すること=事業規模を拡大することかテーマの一つになります。 社会貢献の本質や高度化は社会環境の変化で変わってきますし、高度なものとは長期にわたり社会問題となっているものと考えています。

たとえば環境問題、食の安全、高齢者雇用、女性の管理職、障害者雇用などと思います。 毎日新聞を読んでいて継続して話題が出る問題です。 薬局経営と環境問題の接点は解りにくいですが、投薬指導時に残薬確認をするようにしています。 以前に投薬された同じ薬が残っておれば新たな処方箋発行の医師に処方された薬品量を減らしてよいか問い合わせます。 このどこが環境問題化といいますと薬をちゃんと飲まない人は新たに処方した薬も残しがちで、最終的には残った薬は捨てられます。 薬は薬物、ごみとして廃棄されるときに環境問題を引き起こすかもしれませんし、新たな薬を減らすことで薬の製造を減らすことになりますし、患者様に残薬確認をすることで服薬を促すことにができ、疾患の改善につながります。

少々こじつけかもしれませんが、薬局の事業を通じて患者さんの健康回復に寄与するだけでなく、視界資源の節約も並行して行えるならそれも事業の目標としてよいかもしれません。

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[他業界]

電子書籍

私の趣味と言えば本を読むこと、読むスピードが遅いので決して多読ではありません。 また、好奇心は強いほうだと思いますが、小説で新たな作家への挑戦はあまりしません。

贔屓の作家、北方謙三氏ですが、の作品を何度もよみなおします。 氏の作品は文学作品というより娯楽作品と思われますが(この区別は好きではありません)、読むたびに新鮮で考えさせられます。 氏は多作で、読み返す作品が多く、それも贔屓にする理由です。

贔屓の作家がいる読者は新刊が出ると書店の平積みの時に購入しますが、私は図書館で借りることにしています。 もし本を購入したら北方氏の作品だけで本棚がいっぱいになってしまいます。

世の中には本を買い集める人がいて、保管に困っている場合も多いと聞きます。 今読んでいる『老前整理』(坂岡洋子氏)で定年時に5万冊の蔵書がある人の話が書かれていました。 私は現在61歳になりましたが、30歳から31年間毎年平均50冊の本を読んだとして1550冊になります。 5万冊がいかに大きな数字か実感しました。

老前整理は自分が死んでから遺族に遺品の整理をさせるのはあまりに酷な話のようで、自分が認知になる前に持ち物を整理する話が書かれています。

仕事人間の男性は懸命に取り組んできた仕事の書類を何十もの段ボール箱に詰めて保管しているとか、70歳になっても現役しだいのスーツ50着を保管しているとか、の人の思いのこもったものを必要なくなったのだか捨てて、ごみ屋敷にしないという話が書かれています。

私の母は88歳、居室はごみ屋敷になっていて、すでに手が付けられません。 私はというと一部の衣類を除き、過去の思いのものは捨ててしまい、持っている荷物は少ないほうです。

たとえばかつて山登りに熱中しましたが、山の道具で使えるものは人にあげ、使えないものは捨ててしまいました。 その他の趣味のものもほとんど捨ててしまいましたし、本は数冊が本棚にあるだけです。 それでも経営する会社の決算書やもうすることのないテニスのラケット、ウェア、シューズなど、革靴も丁寧にはくのでたくさんあります。

しかし家財は同年代の男性では少ないほうだと思いますし、新たにものを買うのも少ない方です。 つまり荷物は増えていません。

アマゾンが月額$9.99で電子図書キンドルで60万冊読み放題というサービスを始めるそうです。 一台のタブレットに60万冊はアップルのアイポッドを連想します。 もしアマゾンと提携して、専門図書〇〇冊読み放題などのサービスができてくれば大学の先生や研究者などは家に本の無いスマートな環境になるでしょう。 先ほどの5万冊の蔵書を持つ職を定年で辞した男性は『そもそも収集癖ですか?』と聞かれかねません。 また5万冊の購入費用は専門書であることを考慮して1冊平均5千円とすれば2億5千万円にもなります。

このような省資源のサービスは印刷業界には逆風かもしれませんが環境にも良い話ですし、今後進んで行くと思われます。 スーツなどもクールビスが発展してなくなって行けば私が老後を迎えるころは家に荷物がなくなる時代が来るかもしれません。

『老前整理』に書かれていた中に整理対象が人間関係もと書かれていました。 義理の人間関係を断ち切っても痛痒はなく、死に際し、葬儀などのセレモニーも不要になるかもしれません。 私の死に葬儀が行われるか想像できませんが、葬儀が行われるとして棺桶に入れられるのは北方氏の代表作ではなく使い込んだキンドルかもしれません。

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[役人]

岩盤規制

日本経済新聞一面に掲載された『規制 岩盤を崩す』でいくつか官僚による規制の例示がいくつかありました。

2010年1月、食品業界で「カプセル事件」と呼ばれる事件が起こりました。 血糖値の吸収を穏やかにする効果で特定健康食品の許可申請をしたメーカーが、携帯に便利なカプセル型が認められなかったそうです。

カプセルだと医薬品と誤認されるというのが却下の理由、官僚が民間のやることに因縁をつけて法律ではなく運用で民間活動を規制した典型的な例示だそうです。

消費者が医薬品と誤認することは想定できますが、そのことによる発生する問題がそれほど多いとは想定できません。 また誤認を目的にカプセル型を製造する事業者が出てくればその意図は好ましくありませんが、特定健康食品は一定の生理機能をもつものを承認するわけですからカプセルであってもヒートシールであっても錠剤であっても良いわけです。

ある会社が医薬品として承認される薬効をもつ製品を医薬品承認であれば審査期間が長くコストもかかるという理由で特定健康食品で申請したという記事を読んだことがあります。 特定健康食品で健康維持に貢献できるのであれば認めればよいと思うのですが。

このような規制の考えは日々制度ビジネスを行っていて感じることがあります。 クレーマーを排除するためとか一部の不正請求を排除するためのエビデンス作成とか、社会が複雑になるに従いいろいろな考えが出てきて、それを規制で排除しようとすれば規制だらけになってしまいます。

また規制の裏をかく事業も出てきて、規制が裏をかく事業を擁護するようにもなります。 歴史ある会社や大会社でこのような価値観を持つ役職者に出会うことがあります。 うんざりするほど威張っていて、上から目線で相手を威圧します。 かつてそういう会社と取引していたとき、われわれ零細企業の取引先はそのような管理職から理不尽な扱いを受けても表向きだまっています。 「お代官様、ごもっともでございます」という感じで、本人はそのようにあがめられることにご満悦です。

あるとき私はそのような時代がかった大会社の役職者から理不尽な提案を受け、反撃したことがあります。 当然取引もなくなりましたが、理不尽管理職は私の反撃直後に更迭されたそうです。 つまりその大会社はそういった態度を会社の体質、価値観として認めており、一部の反撃は多数の反撃に繋がるのであわてて更迭したということでしょうか。

その会社が考えや取引先への対処を変えるか社会から消滅していくか、時間のかかる問題です。 そういう意味で楽天の三木谷社長が厚生労働省の一般医薬品のネット販売規制に反撃したことは社会にとって貢献の大きいことだったと思います。

もっとも楽天は当社と比べるべくもない大会社ですが。

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[会社運営]

マーケティング

インドネシア出身の経営学者フィリップ・コトラー氏はアメリカの大学で研究し、「近代マーケティングの父」と呼ばれているらしいですが、社内セミナーのテキストとして「コトラーのマーケティング3.0」を使用しました。

そのセミナーメンバーは部署にかかわらず管理監督の地位にある人が参加するものです。

氏のマーケティング理論は1.0は作れば売れる(何を製造するかが問題)、2.0は同等品の中での差別化、3.0では社会にどのように貢献しようとしているのか、だと認識しました。

介護機器の業界でいえば歩行が困難な人に車椅子を提供する、車椅子という移動・移乗・椅子の機能を提供することで利用者の方の移動性などが格段に上がる、その事業を行うのがマーケティング1.0、揺れの少ない車椅子やカラフルなシート柄、体格に合わせた車いすなど差別化を目指したものがマーケティング2.0、車椅子は高齢者介護では制度上レンタルですから回収した車椅子の消毒工程で公害を出さないとか、コストがかかっても包装材料を工夫するなど環境負荷を軽減するとかがマーケティング3.0と考えました。

私の浅い理解でいえば全くその通りと思うのですが、それぞれの段階でどのようなスタイルの事業が一番発展したかを考えると全くコトラー氏の言う通りと思います。

話は変わりますが私は以前古典落語をよく聞いていました。 古典ですから話題として江戸時代の話が多いのでしょうか、上方落語では人情、とんち等が話題の肝になります。 特に上方では主人公が商売人になりますから商売の話が結構多いと思います。 その中に飢饉で食べるものに困っている庶民を身を削って助ける商売人の話があります。

そのような話はお金を稼ぐことに商売の目的を置いている商売人が社会貢献を果たす(困窮している人を救うことを社会貢献として)ところに話題性があり、数百年も語り継がれてきたと思います。

身を削ってばかりでは商売は成り立ちませんし、デモンストレーションとして少し身を削り、善良である評判を獲ろうとすれば見破られます。 商売は世間があって成り立つので世間に役立ちながら生かされていくもの、本心からそう思って商売を営んできた商売人が現代まで生き残っているのでしょう。 もちろん、それだけではなく経営手腕や社員の質もょ奪いを支える大きな要素です。

私は経営を続けるうえで経営判断を迫られたときにこのような考えが頭をよぎります。 いつも考えているわけではないので、経営がコトラー氏のマーケティング3.0で例示された企業ほどうまく機能していません。 そもそも医療・介護の分野は国の制度でコントロールされ、そもそもが社会貢献を果たす分野です。 役人が作った制度ですが、それはそれはよく考えられていて日本の官僚のレベルの高さを肌で感じます。

しかし事業化された実態は不正請求であったり、非人道的社内システムであったり、新聞にその一角が報道されます。 いかに巧妙な方法であっても誰もが『おかしいのでは?』と疑問を抱くことが私の周囲でも垣間見られます。

逆に天使のように純真な気持ちで事業を営み、高い評価を受けながら事業撤退する事業者もおられます。 経営のセンスにかけているのでしょう。 社内でも知識偏重で知識があれば貢献できて事業として正しいとか、楽して儲けることが経営の王道であるとか、ブランドが確立しなければ経営は存続できないという考えがあったり、多様です。

違法でなければどれもが正しく、一概に否定するものではありませんが一つの考えで律することができないのも現代社会だと思います。 落語の『くまさん、はっつぁん』の話ほどには単純にゆきません。

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[習慣化]

習慣

経営者の仕事のかなりの部分は同じことの繰り返しで、退屈なものです。 よその経営者も退屈なものという記事を読みました。 ただし、退屈の中身は決して平穏であるというわけではないです。 これもよその経営者も同様に感じているのではないでしょうか。

退屈な理由の一つは同じことの繰り返しが延々と続くことです。 たとえば財務資料の読み込み、月次で試算表(損益計算書、貸借対照表)が作成され、取締役会で報告される前に読み込みます。 投資家や経理担当者は各種財務分析を行い、会社の状況を数値の動きとして把握しようとするでしょう。

基本的に同じことをするのですが、たとえば経常利益/売上高が新聞に出ている上場優良企業で5%を目標にしている記事があります。 「なるほど、5%か、当社は下回っているな」と感じるかもしれません。 仮に2%であれば半分以下になります。 5%を目指すために何をすればよいか、利益率の問題なので損益計算書を読み込みます。 粗利率が長期に変化していないとすれば販売管理費が大きいわけで、内訳を読み込むことになります。 新規出店した店の損益がマイナスである、それが利益率を押し下げているなら検討の余地がありません。

次は新店の赤字幅が縮小傾向にあるのか、ないのか、その店の営業員一人づつの替えを思い浮かべながら、その店の週報の実績を思い出しながら傾向をつかんでゆきます。 ひょっとしたら新店の損益以外のところで大きな利益と思わぬ損失が発生していて相殺され、目立っていないことがあるかもしれません。

損益計算書に記載される勘定科目は大科目ですから内容の把握ができない場合がほとんどで、気になる事は経理に問い合わせ、担当部署の人に実際の取引について問い合わせをします。

ポイントは現場に近い人と組織長に聞くこと、その温度差をしっかり把握しておくことで、よくない報告がなされても決して叱らないことです。 そもそも叱るのはその組織を統括する責任者の役目ですから。

このように地味な作業が続くので退屈ですし、微妙な変化は連続する数値の中で現れてきます。 単月の変化にとらわれないことでしょうか。

毎月このような作業を数値を手帳に記載することで繰り返し、頭に叩き込みます。 数値の把握が苦手な私としては苦痛な作業になります。

また定例的な会議があり、そこで実績に基づいた質問やコメントを出さねばなりません。 以前の会議で検討された課題がいつの間にか解決していたとしてもなぜ解決したか、追求しておく必要があります。 『解決したから良いではないか』は次に同じ問題を引き起こしますし、解決は通常の状態に戻っただけです。

このような現状把握を地味に繰り返して問題も起こらなかったとしても利益率は一般に低下してゆきますので、従来考えられない改善や改革を行わなければなりません。

そこでこのような地味な作業は習慣にすることで苦痛を和らげます。 習慣化した方が良い業務はどんどん増えてゆきます。 習慣であるはずの事が多くなり、いちいち意識しなければできないようになってきます。 それほど単純作業が増えるともはや改革・改善・イノベーションは意識の外になって行きます。

そう思えたらすべてを投げ出し、旅行に行くことにしています。 バイクにまたがり、行き先を定めないツーリングに数日行って、帰ってきたときに何の問題もないことはやらないようにしてゆきます。

私の場合、このような方法でバランスを取っています。

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[生活]

葬式

大分県の中核都市に住む叔母がなくなり、葬儀の案内が従兄弟経由できました。 私の父(故人)は男6人兄弟で父のすぐ上の兄嫁、享年89歳とのことでした。 父の6人の兄弟、叔父たちも一人を除いて他界し、私は故人となった叔母と話をしたりお会いした記憶がありません。

しかし数少ない親類であり、お参りすることにしました。 道中が長いのでお参りする従兄弟と京都在住の叔母と同行することにしました。

従兄弟は父の実家のお寺をついで僧侶となり、行の新幹線の中で宗教の話題で盛り上がりました。 自らは無宗教と思っていますが、家として宗教に縁の深い家に生まれ、子供のころから法事など熱心な家でした。

何回忌という法事で家に貼っていた紙には50回忌、100回忌、150回忌・・・・というのがその日付とともに貼ってありました。 それは当時のステータスであったのでしょうが、そもそも100年前に故人となった祖先のことなどだれも会ったこともなく、どのような人であったのかうわさすらありません。 しかし私の知らない親戚がぞろぞろやってきてお参りしてゆかれます。 そうすることで自らの往生が担保されるという考えがあったように思います。

従兄弟の話に戻り、宗教、特に仏教は本来の意味で今後も残るか?という質問に対し「残る」と答えたことが印象的でした。 従兄弟もいろいろな場所で宗教活動をしており、その手ごたえを感じているのでしょう。

斎場について、見渡すと一人として知っている人はいません。 故人ですら面識の記憶がないのですから当然でしょうが、故人は華道の大家であられたそうでわたしでも名前の知っている家元の供花があり、何百人と聞いていたお弟子さんもそれらしき人は数人、地方にあっても葬儀は都会と変わらず簡素なものになってきたのかと実感しました。

故人は台湾で生まれ育ち、当時戦闘機のパイロットであった叔父と台湾で結婚して終戦後、九州に住まれたそうです。 帰りの新幹線では親族の消息が叔母を中心としてなされ、叔母は現在の北朝鮮で生まれ育ち、終戦後結婚して京都に住まわれたそうですが、戦争の悲惨さや当時の政治家の無責任さを話題にされました。 政治の話をするような人では中かったのですが、反戦を盛んに私に訴えられたのが印象的でした。

一方親族の話題については従兄弟が解説してくれましたが、不明な点が多く「わからへん、聞いてへん」の連発で誰が何を言ったとか、誰は皆からどのように思われていたか等仕事は何か、とか具体的な話はあまり出てきませんでした。 仮に悪い話を暴露すると親戚はたまにしか会いませんからその話を何度もされてしまうことになるので親戚間では内輪の話はご法度なのでしょうか。

経済的な関係や情報の共有もないのであればもはや日本の文化は親類縁者の関係を意味の無いものとしているのでしょうか?

従兄弟は宗教は今後も残ると言いますがまさか100回忌を文化として復活させるような方法で仏教なりが残り、過去の風習を温存するとは思えません。 自分の終末を思い描くとどこかの施設か行政の人かが私の死体を運んでゆき、遺体を焼いておしまいという気がします。

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