監査役BLOG

会社を見る鳥の目

経営者の目線で、日々の思いやできごとを綴っていきます。

[社会]

都構想

大阪市の選挙管理いいかいが発行する「都構想」の賛否を問う住民投票広報誌が配られていました。 投票の勧誘が目的と思いきや紙面トップは『めっちゃ危ない「都構想」』、「反対しないと失敗のツケは小屋孫が払うことに」、「都構想」のとんでもない真実、不利益は市民(特別区民)だけに、あなたは「真実」を知っていましたか? すべての真実を知り、納得できなければ「反対」の投票を・・・・・・と過激で一部の事実を拡大して反対投票を勧誘しています。

以上は反対は市議会議員からの原稿をそのまま載せたとか、代表者個人の名前が記載されています。 2ページにわたり、「都構想」を批判しています。

一方最終頁には維新の会の原稿として推進意見が記載されています。

政治には利害が付いて回り、すべての市民に共通の利益の追求は困難で、経済環境変化に伴う政策変更は地域振興から当然で、既得権益者の擁護だけを目指していれば早晩立ち行かなくなると思われます。

既得権益者の利益が損なわれる政治の局面で同様の過激な政策批判がなされるのを過去見てきました。 そのような中傷目的の文面を選挙管理委員会が税金を使って配布することに違和感を感じます。 都構想が総体として利益を生むのであれば、程度の問題はあっても既得権益の一部犠牲は仕方なく、市議選で自民党公認議員の連呼した「天王寺区役所は西成区に設置されるのですよ」という感情論訴えに近いものを配布すべきではなく、選挙管理委員会としては都構想の論点を整理する程度でよいのではないかと思われました。

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[経営]

乞食の商売

以前専門商社に勤めていたとき『乞食の商売』という言葉を聞きました。 商社は卸売業、私がサラリーマンをしていた15年ほど前は化学品製造会社が商社から原料を調達し、製品を商社経由で販売していました。

化学メーカーは大資本で債権回収で問題のあることは少なく、一回の取引額が大きいのでマージンは低くなっています。 ネットで1%というような取引も多かったように思います。

メーカーもいろいろなところから仕入れるより特定の卸を窓口にした方が便利なところもあり、それなりに手堅い商売をしていました。 化学製品の原料で汎用品と呼ばれるものは製造会社も多く、どこの卸を使ってもある会社の原料を調達できますし、卸を使わずとも調達できます。

マージンが低いのでユーザーも『まあ、いいか』と使ってくれていましたが、卸間で競争になり薄利の商売になるケースがあります。 それでも卸は売上が業績の主要基準ですから営業は『何とかお願いしますよ!』と販売先に泣き付きます。

取引は成立し、年間何億という取引で利益は1%以下だったりします。 会社にとって意味のある取引かどうかあいまいですが、会社全体の売上高をかさ上げし、平均粗利率を下げることになります。

介護の業界や調剤の業界では価格が決まっていたり、行政への届出であったり、価格競争は熾烈ではありません。 長らく忘れていたこの言葉、最近の市会議員選挙で『〇〇をよろしくお願いします』と連呼、政策と言えば対立する政党の政策に断固反対します、と連呼、反対だけの主張、お願いしますだけの訴え、15年前を鮮烈に思い出してしまいました。

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[生活]

ある有名大学学生がよく読む本として新聞に紹介された外山滋比古氏の『思考の整理学』という本を読むと、ことわざの解説が出てきました。

著者はことわざが学校教育においてないがしろにされていると述べておられます。 その原因が知的でないということのようです。

私が学生だった頃は親からことわざをことあるたびに言われました。 それを言う親や大人は『大事なことを教えてやろう』という感じで、何度も繰り返されるのでいまだに焼き付いていますが、他人を諭すときに使った記憶はありません。

同様に会社やプライベートの会話でことわざを喩に使う人はお目にかかりません。 ことわざが廃れたのか別の言葉で置き換わって表現できるのか、言葉のたとえが実感できないからかわかりません。

『李下に冠を正さず』は李(すもも)の木の下で曲がった冠を直すと、李の実を盗んでいるのではないかと誤解を招く恐れがあると言う意味で、私の父はよく言いました。 正直に生きるのは勿論のこと、正直であることの誤解も避けよという意味は父の生き方そのもののように当時思いました。 しかし冠を被ることは日常ではないことで、李の木の下という想定はこれも日常的ではありません。

現在であればコンプライアンスの一言で済ませているのかもしれません。

前出の本で解説されていることわざに『従僕に英雄なし』があり、私は初めて聞くことわざでした。 世間で英雄と評価される人に身近に仕えたものはその英雄が凡人に見えるという意味だそうです。

著者の解説でことわざは、経験値を言葉で言い表したもので有益であると評価されています。 『従僕に英雄なし』も世間で有名な経営者の直属の部下に言わせれば大した人ではないことになるかもしれません。

私自身はそれこそ世間で英雄扱いされることはありませんが、事業に失敗した人から事業成功の秘訣を聞かれたことがあります。 私は『運が良かった、特に人に恵まれた』というとその人は大変納得され、『世間で成功した人は皆そのように答えます』と言われました。 私も事業で成功した経営者の本を読んでいて、運の良さを成功の秘訣として書かれていたり、内容から運の良い人と思う記述に何度もお目にかかります。

運が良い人がいると仮定すれば、運の悪い人もいることになります。 採用面接をしていて、そういう人にお目にかかります。 本人が『私は運の無い人間です』とは言わないまでも職歴が多く、勤めた会社の倒産が転職の理由の殆どと言う場合、運に恵まれないのかと思います。

履歴書記載事項にそういったものがなくても初めに顔を合わした時、少し話した時、脈絡もなく不運の言葉をイメージしてしまう方がおられます。 理屈でなく感じてしまう、同じようなことは何ともある、こういった事象は科学的ではないにしろことわざなり経験値として心に留め置くのは役立つことのように思います。

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[社員教育]

管理職の成長

大きい会社は管理職の職階ごとに区割り・責任・権限が明確に定義されています。 当社のような零細企業では定義は成文化されていないだけでなく、曖昧となっています。

組織の責任者から下位の管理職の成長が思わしくない、と話題が出ました。 そもそも何をして、そのためにどのような権限が与えられているのか不明確なのに『成長が思わしくない』と判断されても判断された管理職も、報告された私も困惑します。

何らかの問題があり、そのような判断につながったわけですから何らかの対策は必要になります。 そこで考えたのですが、上位の管理職がその地位にふさわしい仕事をしているか、もし会の管理職と同じ視点で仕事をしておればどちらの管理職もまともで有能なら同じような判断になってきます。

上位の管理職がその地位にふさわしい職務をこなすと下位の管理職は自らの職務が明確になります。 昇進するとはそういうことで、不安はあっても上位の人は上位の視点で仕事をせざるを得ず、その必要があるから上位の感触のポジションが存在します。

しかし上位の管理職の職務の一つには下位の管理職の職務執行についての監督責任や教育・指導があるわけですから『これをしてくださいよ』と教えたことに手を付けてはいけません。 上位の管理職はその時点で自分は何をしたらよいか、宙ぶらりんになってしまいます。

その人が何もしなくてもその組織がうまく回るのであれば、よりうまく回すために何も考えなければその人は時間が余ってしまいます。 たまに接待と称してゴルフばかりやっている上位管理職を見ることがあります。 取引先の葬儀によく出かける管理職もいます。 定年後に再就職面接で何ができますか?と問われ『部長ならやれます』と答えた人も皆同じ何もしない管理職ではないでしょうか?

階層にかかわらず明確な課題を与えることが管理職養成の要点だと思いますし、目標管理制度や予算統制も同様に管理職への課題と思います。

ではトップはどうかといいますと未上場企業では課題を与えてくれる人がいません。 自ら考え、優先順位をつけて勉強する以外に方法はありません。 それをしなくても業績の良い会社はありますが、微妙なバランスに支えられた業績は不安定なものです。 環境変化はドラスティックです。 目先の課題を解決できる経営者のいる会社は業績が安定し、次の手を打ち続ける経営者のところは業績が伸びてゆくと思います。

組織は結局上から下までつながっているのだと思いました。

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[価値観]

自らの成長

採用面接で目標をもっているか質問します。 もしくは何かやる時に目標設定するかどうか、という質問です。

よくある回答が『職場で仕事をうまくこなす先輩を目標にしています』といった答えが返ってきます。

私も毎週の行動目標を立てています。 たとえば腕立てを何回するとか、〇〇を読むとか、ゴルフなら前回スコアを下回るとかです。

昨日の自分が競争相手で、第三者を目標に設定することはあまりありません。 私の中では向上するということは自分自身の問題で、第三者を目標に自分を比較するのが好ましいと思わないからです。

抽象的な目標、例えば皆に好かれるといった目標は自分の行為行動を反省し、自分がされたり言われたりしたら不快なことはなかったか振り返り、なぜそのようなことをしたり言ったりしたのか、そうする必要があった場合、ほかのやり方、言い回しはなかったのか考えます。 親切にも『お前の今の言い方はなんや』と叱ってくれる友達もいます。 だから反省するネタに困らない、別の言い方をすれば人を不快にさせてばかりということになります。

自分の性格に問題があるのか、そもそも誰でも程度の差はあれ同様に不快な行動・発言があるのか、他人との比較をあまりしないのでよくわかりません。

しかし、反省し、振り返り、己の行為行動や発言が少しずつ良くなり、「最近丸くなりましたね」と言われるので少しはましになったのかと思います。

最近ある人から自己中心と批判され、これには困ってしまいました。 他人を目標にしないから、つまりは自分が良い性格になろうとするから自己中心といえなくもありません。 ずいぶん悩み、ストイックに自己改善を図ろうとするのは結局根底に自分の隠れたエゴがあるのかと自分を疑ったりしました。 自分中心でなければ他人中心か、というのも変な話です。

結局自分も含めて人間関係の中で、例えば家族の中で、職場でうまく自分が生きてゆくことでしょうか? それは八方美人を目指しているようにも思えるし、自己犠牲を求められているようにも思えます。

他人への敬意や配慮、人は孤高に生きているわけではないのでそういったものを念頭に自己研さんを積み、昨日の自分を超えることを目標にしろと批判されていると結論付けました。 そんな難しい生き方は大変だなと思いながら思いを巡らす日々です。

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[社会]

電脳医師

私は中性脂肪が高く、継続治療を受けています。 定期健康診断で検査結果に異常値が出ても今まで気にしたことがなく、何回かの検査で改善してきたので、今回も気にしませんでした。

ところが会議で突然と居眠りをしたり、日中睡魔に抗しきれなくなったりして無呼吸睡眠を疑い、耳鼻咽喉科と呼吸器科を受診しました。 結果無呼吸が疑われ、レーザーで喉を焼いて広げる治療法を推奨されました。

「とんでもない、ほかに方法は?」と聞くと「痩せることです」、それなら簡単と当時体重が増えていたので早速ダイエットにかかりました。

ところが次の健康診断で中性脂肪が基準値上限の18倍を記録するに至って再び医者の所に行きました。 対策は体重を減らすこと、さらにダイエットに励み、体重を8㎏落としましたが中性脂肪の値は相変わらず高い数値です。

医者は検査結果を見ていろいろ解説してくれますが、薬と減量、運動しか解決策がないわけですから相変わらずダイエット、しかし体重は落ちなくなってきました。 減らした食事量に体がなじみ、その摂取カロリーで体重を維持できる基礎代謝になってしまったようです。

基礎代謝量を落とすべく筋トレも強化しましたが体は締まってきても体重は思わしく減りません。 どうも60歳を超えると省エネの体になるようで、挫けず無理せずダイエットと筋トレ、有酸素運動を行っています。

そうこうしているうちに3~4年が経ち、その間1ヶ月に一度処方箋を書いてもらうために医者に通いました。 医者とは親しくなりましたが、親しくなるために医者通いしているわけではないので投薬を今までの3倍にしてもらいました。

お世話になっている先生は信頼しているのですが、何も症状が出ないし運動もダイエットも行っているので薬の日数を増やしてもらいました。 健康診断の結果が判れば、病気はほぼ特定できますし、医者といえども検査結果なしで診断は下せません。

診断ソフトを作ればよいのではと思いました。 定期健康診断のデータを入力すれば注意事項と追加検査、考えられる疾病が判定されます。 そして将棋のコンピュータ対決のように毎年現職医師とコンピュータの対決を不特定の患者とその検査データで行います。 私は数年のうちにコンピュータの方が適正に診断するようになると思っています。 なぜなら医師の診断は将棋の次の一手より簡単だからです。 そうすれば医療費は何割も削減できますし、程度の低い医師、つまりは電脳医師に負けるような石を排除することができます。

そして人間医師の仕事は今まで変わってきます。 厚生労働省がそれを行わないのは医師会に対抗する力がないことです。 誰も考え付くこの方法に着手しないのは違和感を感じます。

 

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[人間関係]

自分を変えること、他人を変えること

『他人と過去は変えられない』と言われています。 ならば自分は自分で変えられるか、私は変えられると思います。 何のために変えるのか、より望む自分の姿、理想を追求するがゆえにです。

何も考えない人がいて、友人もいず、仕事も上手く行かない、今のまま生きていても生き甲斐を感じることもないでしょう。 それでもその人は今のまま生きていて、ふと『これてよいのか』と思うことになります。

人との関わり合いが全く無ければそのようなことを感じることは少ないでしょうが、人との関わり合いの無い生き方は稀でしょう。 ドラマを見ても幸せな人のシーンは出てきます。 喜びのシーンもありまかす。

そもそも何が幸せで何が喜びで何か悲しみや苦しみで、寂しさであるか考えなくても感じることがあると思います。 その感性を否定して生きるには社会は複雑です。

私は自分の理想像がこの歳になっても明確に描けません。 だれだれのような生き方を目指すとか、何々を成し遂げて金持ちになったり尊敬されたりというのは強く思いません。 お金は嫌いではないし、敬意を払われて悪い気はしませんがそれを目指すことに抵抗があります。

経営の仕事をしているので会社経営をうまく行いたいというのは強くあります。 そのために行うべきことを考え、何年もノートに書きこんでいます。

もっと社会に貢献する方法とか経営を安定させ、職員の皆さんが幸せになるすべを考えます。 自分がこのようになりたいと考えが及ぶことは少なく、このように会社を運営してゆくうえで自分はどうあるべきか、ということは考えてノートに纏めます。 たとえば会社の組織編制に違和感を感じた時は組織運営の本を読み、異業種交流会で他社の社長がどう考えているか聞き出したりです。

つまりは見ているのは自分ではなく、自分を通して運営する会社を見ます。 別に機械があるわけではなく、会社を見るということはその職員と接することになります。 「この人はこのように考えれば仕事にやりがいを感じるのに」とか見えてきて、ついそのことを話したくなります。 しかし他人と過去は変えられないわけですから、話してもその人にしたら大きなお世話になります。

他人は変えられなくても職員の方と話すことを否定しない人が多くいます。 「誰々さんは最近仕事で悩んでいます。 彼の話を聞いてもらえますか?」と店長に言われれば聞きます。 しかし大抵は意味の無い会話に終わっています。 その人の心の中までわかりませんが、表面上は変化がなかったり、その人の個人成績が大幅に上がった場合もありますがその人が基本的なところで幸せ感が向上したり、自らの理想像を描いて成長して行ったりはしていません。

自分がノートに何十年も悩みや生き方を書いて少しずつ自分を変えてきたことを考えれば問題のある人も生きてきた年月、自分の考えをノートに書いてきたかは別にして考えてきています。 自分の生き方について全く考えない人は少なくともうちの会社にはいないと思います。

よく誰々の言葉に出会って自分の生き方が変わったという話があります。(もちろんその人にとって良い方向に変わったのですが) 私も多くの書籍や他人との会話から影響を受けます。

最近もゴルフに誘われ、その人の車に乗せてもらって話をしていてその人の話とその人の実際の行いに一貫性を感じ、納得したことがあります。 宗教の排他性についての話題ですが、その人は交友関係が広く、ゴルフでも思わぬ人とプレーしています。 しかし好き嫌いは強く持っておられ、嫌いな人とは付き合いませんが非難することもなく、つまりは善悪と好き嫌いは厳格に区別しておられるようで、その人の今までの行動や発言が納得できました。

人が他人から影響を受けるのは僅かの言葉と日々の行動、合わせて感じた時に『なるほど、』ということになるのでしょう。 他人の行動を見ているだけではだめで『なぜそうするのか』に納得のいく言葉も必要になると思います。

誰もが植物の種をまけば芽が出ることは知っており、生物の知識はそのメカニズムを解説します。 しかし実際に目にした発芽は感動的なもので、そのメカニズムを熟知して日々植物の世話をし、きれいな花を咲かせている人はその花の意味を語るにふさわしい人になるでしょう。

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[言葉]

慎み

口は慎めとよく言う。 最近自分に言い聞かせている言葉です。 口は慎んでも感じること、考えることを否定するものではありません。 何かを感じ、何かを考え、それを口に出すのは言わねばならないと感情的になるとき、相手は人ですから言い聞かせようとするときです。

感情的な言葉はあまり良い結果は得られません。 では相手に自分の考えを伝えたり、相手の質問に答えたり、示唆したり、私が誰かにそれをした時声にならない言葉が返ってきます。 『上から目線で偉そうに言うな!』相手のためを思って問われもしないことを口にした時、この言葉が聞こえてきます。

こういう視点で考えては、ということを伝えたかった時が多いのですが、もちろん相手の話の中にそのような視点が欠けていてそれを感じたから言うのですが、『大きなお世話』になっているようです。 しかし人生の先輩として私の示唆する考えをすれば必ず人生が開けると思ってしまうのは思い上がりなので、『上から目線で…・』になってしまうのでしょう。

一方素直に私の言葉を聞いて『なるほど、そういうことか』と瞬間に感知してお礼を言われる場合もあります。 見ているとその人は考えを変え、行いを変え、良い結果を生み、生き生きしてきます。 よかったと思う瞬間です。 それを口に出して言うよりも日常の自分を見てもらって考えるヒントになればもっと良いのですが、考えたことが行動や日常の言葉に反映できているほど優れた人間ではないことは身に滲みています。 だから『口を慎む』ことが必要なのでしょう。

人によっては感の鈍い人がいたり、感受性が低かったり、考えなかったり、いろいろ至らぬところが見えてきます。 それで何とかしなくてはとおもい苦しんでいる人は良いのですが、全く何の痛痒も感じていない人がいたりします。 社会的には迷惑千万で、『ちっとは考えろよ』と思います。 そのような人はやがて孤立し、何かにすがり、ますますバランスを欠いてゆきます。 たまにお会いする同じ事業分野の経営者でもお金にすがる人などその典型だと思います。

経営者ですからお金を稼ぐことは経営の継続という意味で必要ですが、結果としての利益を究極の目的にしてしまうと時に事業運営がうまく行っている場合もありますが、環境変化の中で消えてゆきます。

口を慎むのも自分の考えに執着せずバランスを保つために必要なことなのでしょう。

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[会社運営]

権限移譲

会社運営で権限委譲が話題になります。 当社においても権限移譲は進めてきましたし、知る限り他社の権限移譲より委譲が進んでいると自負しています。

写真の書籍は米海軍原子力潜水艦艦長の大佐が潜水艦内の軍事行動において権限移譲を図った記録です。

一読してまず印象に残ったことは攻撃型原子力潜水艦の乗員が135名もいることです。 当社はやっと110名、それを上回る人員が海底に長期間潜む潜水艦内にいて、その艦長が権限移譲を図ったというところです。

そもそも原子力潜水艦は武器の中でも大変高価な物で、原子炉まで積載していて操船が複雑で多くの戦闘員のチームワークが必要とされるものだそうです。 それゆえ命令は絶対で、手順は厳守されるのですが、その潜水艦で権限移譲を図ることが奇異に思えて読んだ一冊です。

海軍内でも成績の悪い潜水艦の艦長に就任した筆者が権限移譲を図るわけですが、具体的には部下の休暇願の承認を艦長が行うところを下士官に委譲したことが皮きりで書かれています。 軍隊は米国においても大変官僚的で組織の頂点にいる者に多くの権限を集中させています。 休暇願なら権限移譲も許されるでしょうが、実戦形式の演習であっても各科の責任者が判断し、これから行う事を艦長に報告し、実行するというものです。 たとえば魚雷を発射するとかも艦長の次の役職者が判断し、報告してゆきます。

艦長は自分がいなくても戦闘を維持できる組織づくりを目指したのですが、常に報告を受けて状況を把握しますが、もちろん命令を出さないわけではありません。 二つの興味深いエピソードが書かれていました。 一つは艦長に就任して権限移譲を進めようとしたとき、原子炉を緊急停止する訓練で、バッテリーで推進する速度を全速力の1/3から2/3にあげる指示をこの艦長が出しました。 副長が操舵手に命令を復唱しましたが操舵手は機関担当に指示を出しません。 不審に思った艦長が「なぜか」と聞くと副長は艦長の命令を復唱するのは当然と答え、操舵手は2/3の速度設定が選択できないので機関に指示を出せないと答えたそうです。 艦長は知識の不足からできない命令を出したことになります。 艦長はこれを機会に自分が命令を出すのは極力止めようと思ったそうです。

もう一つのエピソードは権限移譲が十分に定着した時、艦長がレーダーを見誤って後退の指示を出した時に航海長が『艦長間違っています』と指摘したことです。

皆が権限を委譲されると自らの責任において臨機に対応を求められるので、モチベーションが上がるのはもちろんの事、いろいろ想定して勉強をしなくてはなりません。 乗員の向上心が高まり昇進試験の昇進率は格段に上がり、演習の成績も何度もトップを取ったそうです。

7つの習慣で有名になったコービィ博士も見学のために乗艦したそうですが、軍隊ですらこんなに変化しているのに日本の企業において身内の覇権争いなど組織運営の時代錯誤を感じました。

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[役人]

クリーニング師の研修

4日の日本経済新聞朝刊にクリーニング師の研修という記事が掲載されていました。 クリーニング師という資格があるのをはじめて知ったのですが、資格取得後も3年に1度国の研修を受けなくてはならないそうです。

内容は『洗濯物の受け渡し』などと書かれていて詳細は不明です。 指導するのは各都道府県にある『生活衛生営業指導センター』だそうです。

’89年に研修参加が義務化されたそうですが、繊維や顧客需要の多様化に対応するためと厚生労働省の見解です。

民主党の事業仕分けで’10年廃止が決まったそうですが、厚生労働省が作業部会を立ち上げて’10年末再開を果たしているそうです。

組織の幹部は厚生労働省の天下りだそうですが、介護の業界にも同様の組織があります。 任意ですが加盟すると認証マークが使用できる代わりに高額の費用を請求されます。

あまり意味がない認証と判断したので脱退を申し出たら高圧的な態度で脅し文句が返ってきました。 厚生労働省の施策は業界にいていつもすごいことを考えると感心しますが、別の意味でもすごいことだと思います。

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