監査役BLOG

会社を見る鳥の目

経営者の目線で、日々の思いやできごとを綴っていきます。

[会社運営]

ネットワークの威力

 AIの開発がマスコミをにぎわしています。 IBMのワトソンに搭載されたAIソフトが米クイズ番組でチャンピオンに勝った、画像認識で猫を判断した、「へえー」で終わる話が、囲碁のチャンピオンに勝ったとかがんの診断をワトソンが行った、AIが作曲した曲がヒットチャートで上位にランクされた、日本の銀行の電話相談窓口のオペレーター100人がAIに変わった、当社の事業で言えばケアプランや薬剤師の服薬指導などもAIにとって代わることは理論上は可能でしょう。

 もっと言うなら町のかかりつけ医や税理士も弁護士も同様で、職務の全部ではなくともだいたいは可能だし、実際代替が始まっています。

 個々のデータを膨大なデータと突き合わせ、一定の結論を導くことは間近な話題でしょうが、代替が遅れるのは 結果を伝えるのは多く場合は人、その部分は当面は人が行うことになるように思います。

 どの事業分野にも業界内でネットワークを築く人がいます。 人は基本的に合理的な判断をすると思われがちですが、その人の外から見ると必ずしもそうではありません。 その人の価値観に沿って行動するから社会平均の合理的な判断から外れている場合が多いと思われます。 そのように価値基準がバラバラの人のネットワークを築くことは大変です。

 たまに情報をたくさん持っていて、情報の小出しでネットワークを築いている人がいます。 そのような人はやがてネットワークから退場するでしょう。

 大昔の村社会のネットワーク、村八分が実際に行われていた社会平均の価値観から現代は多様性が広がり、情報へのアクセスも開示された情報ならすぐにできます。 逆に開示されていない情報、インサイダー情報はどんどん管理が厳しくなって一般に知る由もなくなってきます。

 したがってネットワークの持つ現代的な意味は村社会と異なり、多様な価値観の調整ができることになってくるでしょうか。

 AIが普及期に入って多くの作業から人が解放される、つまりは消滅する仕事が増えて人が行う新たな 仕事が登場してきます。 AI普及の書籍はたくさん出ていて、仕事がなくなることを予測しています。 新たな仕事も予測されていますが、社会平均の価値観がどのように変わり、ライフスタイルがどうなっていくということは示されていません。

 SF映画でも未来に登場する車やロボットについてそれらしいものが登場しています。 服装はイメージできていないようです。 食事や人間関係についてもうまく表現しているものはないように思います。

 AIが仕事を奪うことに目を奪われるより、消えゆく作業から解放された後の生活はどのようになるのか、そこに想像力を働かしてみたいです。 

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[会社運営]

歴史

 会社の歴史、少なくとも自分がかかわってからの社史をまとめようと取り掛かりました。 約二週間、他のことは何もせずに残存しているB5判のノート、産業能率大学の考案したノートで400ページくらいあるノートを毎年使っていますが、ほぼ全ページ書きつくしているものを13冊読み、要約を作成しました。

 ノートに書くことは、予定、起こった結果 、悩んだこと、考えたこと、忘れてはいけないこと、私は元来記憶力に問題があるのでノートを多用するようになったのですが、忘れないため、書いて忘れてしまうため、書きながら考えをまとめるため、いろいろな目的でノートに書いています。 一つ判ったことは読み返すために書いていなかったということです。 だから10年以上前に書いたことは何を意味しているのかさっぱり分かりません。

 さらに具合の悪いことは問題や課題についてのみ書かれていて、何を決めたのか、どうしてそのように決めたのか、肝心なことは何も書かれていません。

 ドラッカーいわく、問題に集中してはいけない、貢献に集中する のだと、私の場合ノートに関しては問題に集中している様です。 つまりはこの18年間、社内外で起こった問題のみに集中していて貢献することにそっぽを向いていたように書かれていることです。 在籍期間仕事に情熱を注ぎ、それなりの成果を上げてきたつもりですが、残っていた足跡は失敗の話だけだった、それを二週間も読み続けると全く嫌になってしまいました。

 今度は同じ期間の財務諸表をグラフにしてみると、輝かしい成長がグラフの右肩上がりのカーブに描かれます。 18年間で赤字が一期だけ、前年数増収で、かなりの期が増益となっています。 全く輝かしく誇り高きグラフ、思わず見ほれました。 もし経営学のテキストで優良企業の 財務の推移をグラフで掲載するならうちの会社は最もふさわしいと思うほどです。

 グラフを多用したプレゼンを全社員の前で行ったら聞いていた役員が『ねむたい、わかりにくい』とのだまいます。 私の18年間の誇りが音を立てて崩れ去ります。  『一体どこが眠たいねん、言うてみい』心の叫びもむなしく別の役員からは『そんなことは誰も関心無いで』、もう完全に打ちのめされました。 『ええい、しゃらくさい、そこまで言うか! 俺はもう辞めてやる』と心の中で毒づきながら『一体どうしたら皆に社史が理解されるのでしょう、教えてください』と下手に出ます。 自分で自分が情けないですが、他の取締役もバカにしているのではなく親切心で言っています。 それはよくわかるのですが、『ちょっと笑いながら言うの、やめてくれる』とまたもや心の中で毒づきます。

 日々一緒に経営のことを考える役員たちは社内でも一番気脈の通じる仲間のはずであるだけにここまで感覚に落差があったのか、あ~ 情けない。 しかし、仕事なので『覚えて折れ、後でほえ面かくな、俺のプレゼンで尊敬を一身に集めるぞ!』と 気合を入れなおしました。

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[価値観]

偶像

人は象徴的なものを求める傾向があります。 自分の気持ちを高めたり、意識を集中したり、獲得した境地を新たにするために塑像や絵を用いたりします。 それが野蛮なことでは決してなく、テニスの選手がグリップにつけたマークを見つめることで集中したりしています。

チベットの地(現在チベットという国はないし地名としてかつて吐蕃王国があったエリアを示す)の山を登りに行ったときに滞在したエリアのチベット人はラマ教の熱心な信者で、地面に棒を立ててロープを張り、経文が印刷された布を張り付けた場所に出向いて、『友達と喧嘩してしまった』などと懺悔し、心のもやもやを浄化させるようです。

企業において創業主の像があったり、管理職だけに許される制服があったり、役員用のバッチがあって職員がみなあこがれをもっていたりします。 これらも偶像と考えられるでしょう。

会社において代表取締役の究極の役割は何かと自問することがあります。 会社全体の方向性を示したり、大きな問題の責任を取ったりすることでしょうか?

よく大会社で職員の一人が違法行為をなして世間を騒がせたりすると代表が出てきてマスコミ相手に謝罪し、進退を問われます。 「責任を取って辞めます、再発防止に全力を注ぎます」などと答弁があり、辞める人には不運であったと同情が集まり、留まる人にはそうまでして役職にしがみつきたいかと思われるでしょう。

いづれにせよ個々に事情があり、代表の管理で防げた場合は辞任もありうるし、全くあずかり知らぬところで起こった事件なら辞任することに何の意味もないでしょう。 必要なのは役職に応じた責任を取ることと思います。

しかし代表への一般の認識は、全経営責任をはたす考え方が一般的で、代表は全能者であることが裏打ちされているとおもいます。 すべての権限を委任したり行使したりしているかは別として持つものが代表という考え方ですから全責任を負うのは当然と考えられがちです。

それは国家官僚のような旧態とした組織でもIT企業のようなコンテンポラリーな組織であっても、またヤクザのような任侠道の組織であっても、軍隊のような戦闘集団であってもみな同じように思います。

私はすべての役職、地位において権限を持ち、権限に従って意思決定したことの責任がついて回るもの、それで組織は語れると信じていました。 組織の権限構成は完ぺきではなく、権限間に隙間があれば組織のほころびが起こるかもしれません。 費用対効果からレアケースのための責任者を省くこともよく行われます。 したがって、隙間だらけの中で起こりうる事故は末梢の問題であっても代表の責任となってしまいます。

それはそれで合理的な判断ですが、規定などで成文化してそのリスクを網羅することはあまりに煩雑です。 そこで代表は全能者であるという話題に繋がってしまいます。 全能者を表すものはこれこれの権限を有するというものではなく、彼が怒れば怒りの対象は正しくなく、彼が正しいといえば正しくなってしまう、つまり『彼』は偶像そのものになってしまいます。

資本主義や民主主義が発明されて何世紀も経過しても人の営みは全能の神を必要にしているように思える時があります。

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[社員教育]

シンプルな営業

 小説家で三浦しおんさんの作品を続けて読んでいます。 最初に読んだのが『まほろ駅前多田便利軒』、三浦さんは1976年生まれですから私より33歳若く女性、私は小説が好きでよく読む方だと思いますが30歳以上若い作家で女性の作品を読むことはほとんどありません。

 まほろ駅前多田便利軒はいわゆる便利屋を主人公として、依頼主の要望をこなす様子を作品にしています。 便利屋は仕事の多くは依頼主の自宅内に入ってする仕事、依頼主のプライバシーに入り込むことが多く、短編集としています。

 他人のプイバシーは何であれ重たく感じるもので、短編で軽いタッチで読者の負担を減らせています。 読者の負担が重くなりすぎると喜劇も悲劇も受け流せなくなるでしょう。

 登場するのは多田と行天の高校が同級生の30男、どちらも男性です。 多田は結婚生活の破たんから立ち直るために会社を辞めて便利屋を立ち上げ、ストイックに仕事に打ち込むことで過去を洗い流そうとしています。

 行天は直観に従って生きる変人で、仕事はいい加減、しかし真実を瞬間に見通して余計なことを言ったりやったり、天才肌の変人です。

 話は変わりますが、会社の営業ミーティングで各営業職員が毎週どのようなことを目標にして何をし、どのような結果を出したか、報告するときに他の営業がコメントします。 こうすればよかったんじゃないか、相手の発言はこういう意味ではないのか、質問と同時に評価がなされます。 質問する人は自分も同じ成果を期待できないか自分中心で考えています。 人の行動と良い結果は応用できるかもしれないので会議の目的でもあります。 評価はよくある『営業鉄則〇〇、これで営業が決まる』的な本のようです。 他人の行動と結果について無責任なことを偉そうに言う必要がどこにあるのかと思います。

 私は聞き流すことにしていますが、得意がって言っている話が聞こえてくると正直気分が悪いです。 もちろんとんでもない勘違いはあるものなので私の場合『それはこうこうということですか?』と質問します。 しかし質問する前に獲物を見つけたハンターのごとく突っ込みを入れる輩がいます。 当然成績はあまりよくありません。

 多田便利軒の多田は他人のプライバシーの最深部に入ったときに評価にあたることは一切言わないようにしています。 それが営業の本質、著者は顧客の最深部に潜む問題を瞬時に感じ取り、とんでもない言い回し、茶化したり、露悪的であったり、で言ってしまったり、黙っていてその問題が顕在化するような行動にわざと出たりします。 もちろん作品だからできることで現実にそのようなことをすれば多田便利軒は廃業になるでしょう。

 作品で多田は凡庸で誠実な人として描かれています。 その多田も行天の天才的直観と同じ評価を抱くときがあります。 著者によって考え抜かれた行天 の直感が描かれますが、書かれている状況だけから真実にたどり着くのは現実的ではないでしょう。 そんな人がいたらシャーロックホームズや相棒の杉下右京、スティーブジョブズ、ビルゲイツのように歴史に名を遺す人たちのようにそれぞれの分野で歴史に名を残すと思います。

 真実を瞬間に見抜く卓越した洞察力はそれを利用できて大きな成果に早くたどり着くわけで、多田はこの先便利屋を一生そつなく続けるでしょうし、行天が便利屋家業を続けるなら全国チェーン展開を図ることでしょう。

 作品と現実の会社の営業ミーティングを比較してわかることは他人の評価は自分にとっても 相手にとってもそれが真実に近ければ意味がありますが、良い結果を生むという意味では言わないに越したことはありません。 大きい成果を生むために因果関係の真実を探ることは有効ですが、真実をもとに評価につなげられることは大変まれであると経験上思います。

 そもそも他人の評価で真実を言い当てていると思うことは言われた評価を手帳に書いて10年程度たってから見直して、なるほどその通りなったということです。

 当社の営業職員の成績は標準偏差のカーブを描いて分散しています。 実績を上げる人は転勤になっても実績を上げ、上げない人は転勤になっても担当替えになっても華々しく実績を上げることはありません。

 私はその違いがちょっとした考え方の違いと考えています。 実績を上げる考え方を持っている人は見ていればわかりますし、実績を上げられない人も見ていてわかります。 人の評価は面談して最初の何十秒で決まるという本がありましたが全くその通り、 私にもわかります。 しかしその本は笑顔の効用と作り方などか続き、それが実績を上げるすべてであるかのように書いていることでしょう。 しかし真実はちょっとした考え方の違いによるもので、実績の上がらない人が考え方を変えると笑顔も自然に出てきます。

 会議で人の評価をしたがる人は『お前が売り上げ上がんないのは口角筋がゆるいからだよ、バカヤロー』と言っているようなもので言われた人は何のことかわからないでしょうし、解ってもそうは思わないでしょう。

 実績の上がらない人は自分が実績が上がっていないこと、自分の考え方のどこかが間違っていること、ひょっとしたらどうすればもしくはどのように考え方を変えれば実績が上がるのかわかっているかもしれません。 素直に変えることのできない自分に嫌気がさしているのです。 そしてずれた考え方で歯を食いしばって頑張りとおし、少しばかり実績を上げて自己弁護しています。

 実績が上がるということは毎日仕事が寄ってきて、それをこなすことです。 それが仕事、誤った考え方に固執するため力入れまくり営業をすれば疲れるだけです。 世の中に困っている人がたくさんいて、それを解決できる技量をもった営業がいれば困っている人は頼んでくるでしょう。 そんなに頼まれても真っ貰わないとというのが営業だと思いますし、困っているけどあんな奴に頼めないは営業不適な考えたかに固執していると思います。

 

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[人間関係]

素直すぎる人

 私の趣味の一つ、オートバイでのツーリング仲間に55歳の男性ライダーがいます。 友人の多い人ですが、人のことを悪く言わないことを徹底していて、いつもニコニコしている事かと思っています。 世間の人間が皆彼(O君)のようであれば諍いもなく、秩序も保たれてよい社会になるのかと想像するときがあります。

 そのO君が失職し、人間不信に陥りました。 なぜにと聞くと 人間関係のもつれとのこと、O君の評価と矛盾する理由です。 友人と起業したのですが、その友人とうまくゆかず起業した会社から離脱しました。 友人との起業がうまくゆかない話はよく聞きますが、情によるつながりを仕事に持ち込むのは難しいのではと想像します。

 O君との付き合いは長いのですが、ツーリングクラブでも人間関係のもつれからクラブをやめたり、思い起こせばO君は人間関係のもつれがあります。

 このことを好意的に評価すればO君の人柄の良さに付け込む周囲の人の思惑が浮かび、遅れてそれに気づいたO君が気を悪くしてもつれてしまうパターンです。

 好意的でなく評価すれば、お人よしも時にもつれを誘発するということでしょうか? 彼が長年争うことなく付き合っているのはお人良しに付け込まない、個人主義の人のようです。

 O君と付き合っていると古典落語に出てくる長屋のくまさん、はっつあん、家主の会話を思い浮かべてしまいます。 古典落語は世代を超えて受け継がれた人間模様でちょっと面白い話、だからO君のような登場人物が出てきてお人良しで素直すぎる人が笑いを誘う事件を引き起こします。 それが殺人や大金の詐欺事件をテーマにしないのは、庶民芸能としてきな臭さを嫌っているからでしょう。 そもそも悲惨な話を聞きたいと思わないでしょう。

 古典落語を例に出したのはO君のような素直すぎる人が現代社会で生きていきにくいのが多様性を原因とする解釈が多いように思うからです。 古典落語のネタは江戸時代、現代社会と比べ多様性という点でシンプルだったと思います。 多様であろうがなかろうがO君のような素直すぎる人柄は生きていきにくいもので、人間関係の普遍性に思えます。
 

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[会社運営]

違和感

 最近入社した若い男性薬剤師は『社長は今日何をしたか?』と会うたびに聞かれます。 朝何時に起きて、会ったその時間までの詳細な行動です。 私はあまりいい気はしませんが、出来るだけ正直・正確・詳細に報告します。 質問者はそれに対して一切コメントをしません。 コメントを控えているというより単純に『そうなの』と思うだけのようです。 それが一般的でない行動でもコメントはありません。 例えば私はだいたい9時から10時の間に寝ますが、目覚めるのは3時頃、4~5時に離床します。 起きてからコーヒーを飲み、ストレッチ、筋トレを行い、新聞や本を読みます。

 私にとって朝は考えるのに最高の時間で、スピーチの原稿や経営の方針などを考え、A4の紙に鉛筆でまとめたりします。 一度書いたテーマがそれで完成ということはなく、翌日も書いたりします。 A4一枚1000字程度、前日に書いたものを見ないで何度も書き直します。 たまにまとめて以前に書いたものを見ると稚拙で実用に耐えません。 4~5回書き直すとユニークで論旨も通ったものに仕上がる時があります。 会議で発表するとすぐに反応する人は一般に少なく、がっかりします。 しかし、数日後、数週間後、数か月後、数年後に『あの時こう言ったではないか』と指摘され、ちゃんと理解し覚えていたんだと感心します。 私はあまり評価されなかったのでその後も何度も書き直し=練り直し、修正後のものを発表して実行しています。

 逆に自分の周りで起こっていること、他の取締役の発表された意見に反対意見は思い当たらなかったが違和感を覚えるときがあります。 その場で質問できれば良いのですが、何を聞いたら良いかわからずそのままにしておき、その取締役はそのまま実行し、相当時間が立って頃、結果に驚くことがあります。 思っていたより良い結果であったり、イメージと違った結果になったりしたとき、『あの時こう言ったよね』と問いただします。 それは最初にプランを聞いたときできなかったイメージがだんだん固まってゆき、それが出てきた結果と異なったということです。

 では最初にイメージも共有できなかった会議で提案を決めてしまったことは正しくなかったのか? 難しい問題です。 イメージを共有できるまで議論すると時間がかかり、決定が遅れてしまいます。 イメージもなく決めることはリスクを伴います。 よほど重要な問題でない限り、イメージの共有がなくとも懸念を表明して決定してしまいます。 そして不都合があれば途中で修正されます。 不透明なことに時間を費やすより、実行して姿が見えてきてから修正したりするので、最初のプランがベストではない場合が多いです。 ベターでもグッドでも良い、何もしないよりやった方がよい、結果悪い提案であって、提案時に違和感を感じなければ己の不明を嘆けばよいと考えています。

 新聞を読んでいたり、日常で違和感は多く感じられます。 経済雑誌を本屋で見るとタイトルが時代を表していると感じるときがあります。 記事を読んでみると大したことが書いていない場合が多いです。 したがって私は経済雑誌をほとんど読みません。 これら雑誌の記事のタイトルは多くの人が違和感を感じるイメージと現実のギャップをうまくついているのだと思います。

 最近本屋に行って3冊経済紙を買いました。 『おや!』と思ったタイトルの記事もほとんどが知っている事だったり、私がタイトルにつられたということは私の違和感も平均的で、雑誌が廃刊にならないのは記事の内容にたまに『おや!』が『なるほど』につながることが書かれているか、私が理解していることは実は一般的に『なるほど』ということなのかどちらかと思いました。

 私が会議で練りに練ったプランを提案して、賞賛を受けなくても雑誌のタイトル程度には斬新で『おや』、『なるほど』の提案かもしれないと安心しました。

 

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[会社運営]

結婚相談所

 当社は結婚相談所の事業に乗り出しました。 オープン前ですが、株式会社上六調剤薬局結婚相談所『アイ ドゥ』です。

 社内外に公表し、ホームページも立ち上がり、噂にもなっています。 お世話になりたいという話もありますが、なぜ薬局や介護事業を営む会社がその社名のままで結婚相談所を運営するのか、という疑問を抱く人が多いです。 確かに業界的には連想しにくい事業かもしれません。

 先日二人の薬局長が薬剤師の服装規定を作りました。 私ども薬局においても薬剤師の業務は何か、という話題はことあるごとに出ていました。 処方箋指示通り調剤するのは当たり前、患者様の疾患治癒にドクターととともに専心する職業ですが、患者様から見た調剤薬局は『商売だろう、笑顔で接しろ、客を(患者をではなく)待たせるな、薬のことをちゃんと説明しろ』とう声が聞こえてきます。

 信頼感があって初めて成り立つ商売、薬剤師に調剤権がありませんので薬が効くか効かないか、副作用があるかないか、は処方権をもつ医者の 責任が大きいですが、日常生活の様子を聞き、薬を飲むときに一緒に食べたり飲んだりしてはいけないものを注意したり、服薬後の副作用として眠気が出るものは車の運転を控えるように注意するなど多くのやり取りがあります。

 薬局で薬剤師の動きを見ていて服薬指導(薬をお渡しするときのやり取り)は緊張の一瞬です。 一般にドクターは権限が大きいですが薬剤師の権威は社会的には低いように思います。 医者の役割は疾患の診断と治療方法の決定、 疾患の治癒は多くが服薬によります。 ここでの説明は重要で治癒の効果は大きく影響を受けます。

 そこで薬局長は清潔でカジュアルでない服装を薬剤師に求めたのが先ほどの服装基準です。

 つまり薬剤師は接客に細心の注意を払い、患者様に指導内容への 理解を深めることが使命の重要部分となります。 介護の営業も同様の服装基準を設けていますし、ロールプレイイングで接客内容の点検を行っています。

 このような事業を行っていると当社の強みは接客時のコミュニケーション力が大きいと言えます。

  結婚相談所も同様で、結婚は人生の大きなイベント、そのマッチングを他者に頼る人は出会いが少ない、自分の評価がずれていて自分の強み・弱みを誤解しているなど理由があるわけですから、お客様とのコミュニケーションが重要になってきます。

 つまりは調剤薬局と同質の役割を担う事業と言えます。

 中には『結婚相談所は儲かるの? 』と質問する人もいますが、もっともな質問だと思います。 事業とボランティアの違いは営利につきますので、今更『金儲け?』との批判も意味がないように思います。 『結婚を商品にするのか?』と言われれば人を幸せにする仕事、夢を事業の目的にしているわけですからと切り返せます。

 どのような事業でもそれが反社会的なものでなければ社会貢献を果たしていると信じています。 貢献の大きさが利益に反映し、経営の仕事は貢献を利益に導く仕組みを考えるのが役割です。

 厳しい競争関係にある牛丼業界は安く、美味く、早い食の提供という貢献を果たすべくしのぎを削っています。安ければよいと原価を割って提供すれば一時的に顧客は好感しますが、事業を継続できずに廃業に追い込まれます。 底の雇用はなくなり、美味い安い、早い食の提供はなくなります。 店員の対応が良ければ、店の床がきれいであれば、食器がそれなりのものであれば、割箸が良ければ牛丼を食べたお客様は味、スピード、値段以上に好感を持ち、リピーターになるでしょう。

 複数事業を営む多くの企業においてその組み合わせは大抵納得のゆくものです。 医療介護業界で医療法人が高齢者施設もケアプラン施設も福祉用具の取り扱いも行っているところがあります。 なぜそのような組み合わせをするのかあえて聞けば顧客の囲い込み、個々の事業品質が低く囲い込みの外から依頼のない場合は顧客にとって囲い込まれるメリットは小さいものになります。

 良い事業で外部からも評価されていれば囲い込みをしなくても流行っているもので、顧客はよく見て、正しい評価をしていると思います。 もちろんそうでないのに流行っていて、違法行為を平気で行い、顧客のわがままを聞いて評判をとっている事業者も散見されます。

 よそはよそ、当社は同業を評価するのが事業目的ではありませんから、取引先の選択において最大限調べて、コンプライアンスは当然ながら取引関係において高い倫理観を持ち、 取引条件の良いところを常に探しています。

 個人的ではありますが、90歳の母がある証券会社の担当に投資を進められ、いくつかの投資がすべて大きな損失を出す結果になりました。 そのグループの金融機関との取引を控えることになりました。 証券会社と銀行は同じグループでも別会社、しかしグループの体質は似ていると思います。 

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[生活]

認知症

 夏に母が自宅で倒れていて、救急搬送されました。 入院した母は早朝に夜中に脱出を試み、病院に迷惑をかけたので病院から『さっさと退院してくれ』と言われました。 一人暮らしをしていて、退院して自宅に戻ったとしても認知症になっているのが解ったので一人暮らしは無理と判断しました。

 その自宅もゴミ屋敷となっていて、とても人が住める環境ではありません。 そこで高齢者施設に入居させることにしました。 本人は一時的に悪化した認知症から回復しておらず、帰宅を強く望み、施設でも脱出を試みたり玄関ドアのガラスをステッキで割ったり 、毎日おやつをもって慰めに行ってもフォークを投げつけられ、どうしたものかと悩む日々が続きました。

 数週間して認知も当初より軽度になって、普通に話ができるようになりました。

 母は我が強く、人の言うことを聞かなかったりを私に対してこうしろ、ああしろとうるさく言うのであまり良い関係ではなかったのですが、 軽度の認知になってから邪気のない笑顔でよく笑い、これがあの母かと思うほど嫌味のない人格になりました。

 もちろんいつも安定しているわけではなく、時としてお世話になった人を悪く言ったり しますが、ここ一か月は全く落ち着いています。 認知症の症状である短期記憶もそれなりで、毎日訪問しては昨晩のおかずは何かと尋ねるようにしています。 突っ込んで聞くと少しずつ思い出して答えてくれます。 何より毎日聞くので『また同じことを聞くのか』と笑い出します。 つまりは昨日もおとといも同じ質問をされたことを覚えています。

 答えられないと『あかんな、こんなんでは生きていてもしょうがない』と少し落ち込みます。 『毎日、出来事をノートに書いてみては』といって今日訪問すると『大隅氏ノーベル賞受賞』とノートに書かれていました。

 母は今年90歳、 病気はありません。 エアコンで室温がコントロールされた部屋で毎日元気に暮らしています。 

部屋で倒れたのは熱中症、昨年エアコンを付け替えたのですが使い方を忘れてしまい、この夏の 暑さで熱中症になったのが発端です。

 もう少し丁寧にエアコンの使い方を教えればよかったのか、緊急搬送されて認知症が明らかになり人が変わったように明るくなったことが怪我の功名なのか、30年後の自分と重ね合わせてみると複雑な思いです。

 しかし母が変わったことで積年の悪い関係が改善され、今は平和な親子の対話ができるようになりました。 

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[価値観]

再出発

 人は新たな人生を歩むときに過去を捨てなければならない時がある。 新たな人生とは少し大げさかもしれませんが、転職する、転居する、結婚する等物理的空間的なあらたですし、何か新しい考え、例えば宗教に帰依するようなことも精神面での新たな人生でしょう。

 過去にない大きな出来事に遭遇したり、大きな決断を強いられ、人に話せないことで、そのことを心の中に封じ込めて残りの人生を送らなければならなないようになるとかです。

 では過去はというと、転職などでは過去の待遇、人間観などです。  転職においては一般に年収が下がるでしょうし、役職もなくなる場合が多いと思います。 以前は課長だ部長だと言っても今役職がついていないなら今を中心に日々の生活が流れるのは言うまでもありません。 この場合、捨てるべきはプライドであったり、視点、以前部長蜀でれば部長職の視点を捨てなければ今の職位に応じたものの見方でなければ職務を全うできません。

 過去は抽象的なものですが、過去に持っていたもの、私の場合趣味のものが多いですが、山登りの道具、テニスのラケット等はやめて何年もたつのにクローゼットに残っています。 またいつか再開するかもしれないはずはなく、持っていても仕方がないのですが。 それでも多くの物をすてさりました。 山登りであれば国土地理院の地図、過去にはじめて登る地形図を買い、携帯に便利なように折りたたみ、登ったルートをペンでなぞった地図は数百枚あったと思いますがすべて捨て去りました。 自分が数多く寄稿した山岳会の会報も捨てることができました。 何百人もいた山の仲間の人間関係も全部切れてしまいました。

 こういった人間関係をずっと大切にする人、思いである物を大事に保管する人もおられるでしょうが、私の場合これら過去を捨てるには捨てる訳があり、捨てた過去に興味がなくなったか変わるべき新しい何かを始めたかです。
 山登りは体力の衰え、転職で山に登る時間が無くなったこと、十分多くの山に登り満足したこと、そのころ勤め人でしたが休日ごとに山を登り、いつ辞めても未練がないと思ったことでしょうか。

 人間関係が途絶えたのも山の付き合いは山だけと思っていたからです。 山をやめるきっかけとなった転職後、新たな人間関係が築かれこともあります。

 必死にやっていたから未練がなかった、過去を捨てることに抵抗がなく新しい環境を受け入れることができた、いまだに持っている山の道具は捨てそびれたものと思っています。 多くの人間関係も山が縁での付き合いで、山以外でも付き合うほどの関係でなかったということでしょうか。

 その一方で山登りで得た考え方などは身についてしまっていて、時々出てきます。 物をさっさと片付けるとかです。 山でテントの中は狭く、食事などはさっさとすましてすぐに食器などを片付けないと次のことができません。 それが身についていて、食事が終わるとさっさと食器を片付け、洗ってしまいます。

 いつもなぜそうするのか疑問をもたなかったのですが、重要な来客があってお茶が出て、客が帰ると自分でお茶碗を炊事場に片づけています。 これも捨てられなかったテニスのラケットのようなものでしょうか。

 多くの経営者を見ていると断定した見方、お金の使い方、価値観に共通点があります。 私は時々外れていて、質素であったり、自分で何でもやってしまったり、周りの経営者からきっと貧乏性と思われていると思います。私の捨てられなかった過去は貧乏性に集約されるのかもしれませんし、あまりカッコもよろしくないのですがそれが自分、最後まで捨てられない、捨ててはいけないものと思い、上手く付き合っていこうと思います。
 

 

 
  

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[生活]

引越し

 引越しの可能性が出てきました。 普段の生活ではシンプルで物をなるべくもたない生活を心がけてきました。 本はできる限り図書館で借りるとか、服は必要最小限にするとか、今住んでいるマンションの部屋が比較的広く、いざ少しづつ整理を始めると意外に多くの荷物があります。

 常に必要ですが捨てられるもの、 例えば古い資料とかメモ用紙とか、まだ使えて捨てるのに惜しいけれど持ってゆくにはちょっとと思うもの、大型家具など、これは転居先で収まるのであれば持ってゆかざるを得ないものです。

 服は人並みあることが解り、夏冬のスーツ 併せて10着以上あります。 そんなにたくさん必要ないと思います。 厄介なのは観葉植物、知らぬ間に大きくなり、記念に貰ったものなど捨てるわけにゆかず、どこか貰い手を探すことになります。

 一つ一つを注意して行うとすれば気の遠くなるような 作業です。 最近母が施設に入所し、ゴミ屋敷状態の荷物を一つ一つ仕分けし、産業廃棄物業者に引き取ってもらいましたが、何日もかかった作業の最後はほとんど廃棄扱いにしていました。

 引越しの可能性が出てからほとんど物を買っていません。 食品など貰った素麺がたくさんあって、毎日そうめんを食べていますが、一箱の素麵を食べきるには相当日数がかかります。

 毎日少しでも廃棄するものを作っています。 着なくなった服、古いファイル、先日は廃棄ファイルの内容で問い合わせが来て愕然としましたか、雑貨等日にポリ袋一杯を捨てるのに迷います。

 結局時間が無くなれば全部捨てるのでしょうが、シンプルに生きる難しさを痛感しました。 

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